「広島城」39城目@100名城 #広島県

■城名
広島城

■別名
鯉城、在間城、当麻城

■所在地

安芸国佐東郡広島

■称号
日本100名城、日本三大平城

■築城年
1589年(天正17年

■廃城年
1871年(明治4年)

■築城者
毛利輝元

■主な改修者
福島正則

■主な城主
毛利氏、福島氏、浅野氏

■天守
外観復元天守

■天守構造
複連結式望楼型5重5階(1592年・非現存)
外観復元(SRC造・1958年再)

■城郭構造
輪郭式

■城分類
平城

■縄張
毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存していましたが、太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものです。

■歴史
承久の乱以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていましたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利したことにより、以降当地は毛利氏によって支配されることになります。
それまでの毛利氏の居城である吉田郡山城は、尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた
だが、元就の孫・毛利輝元の時代、天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代になります。
中国地方9か国112万石(小早川や安国寺ら含めると150万石以上)の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始め、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めました。
1588年(天正16年)、輝元は豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大坂城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われています。
1589年(天正17年)4月15日鍬入れ式[23]。穂井田(穂田)元清と二宮就辰を普請奉行として、築城が開始されました。
城の構造は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取っているといわれています。
1590年(天正18年)末、堀と城塁が竣工したことから、1591年(天正19年)1月8日に輝元は入城します。
1593年(文禄2年)石垣が完成、1599年(慶長4年)に全工事が完了し落成しました。
完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城だった といわれますが、関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、1600年(慶長5年)城主となった福島正則により改築。
福島氏時代、穴太衆を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりが本格的に行われました。
外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城となったのはこの頃です。
二葉の里付近から城の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように付け替えるとともに雲石街道を整備したといわれ、町人町が拡大しまいた。
この大規模な城整備と城下町作りは徳川家康を怒らせ、1609年(慶長14年)正則は謹慎を言い渡されています。
さらに、1619年(元和5年)、正則は洪水による被害の修復を幕府から武家諸法度を破った無届け改築ととがめられ、改易され信濃国川中島へ転封されました。

■遺構
石垣、堀

■再建造物
大天守・表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓

■ご城印

 

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■城巡り記録

2022年9月17日

毛利元就の拠点であった吉田郡山城を見た後に、その孫にあたる輝元が築いた広島城に行ってきました。

広島城は二の丸が復元されています。

広島城の特徴といえば二の丸です。

二の丸に行く御門橋と表御門がどっしりと迎えてくれます。

二の丸ですが、本丸から切り離されたように作られていて、馬出の機能を持っています。

広島という地名ですが、自然の地形を表現する「広い島」という意味。

そして、もう一つが、毛利家の祖が大江広元であり、広元の広と上智剪定の案内役を務めた福島元長の島を合わせたという説があります。

それにしても、毛利家の祖が大江広元であったことに驚きました。

こちらは今やっている鎌倉殿の13人に出てくるので、ここから毛利家につながるのかというのは驚きです。

二の丸に入っていきます。

二の丸は櫓が連なっています。

平櫓、多門櫓、太鼓櫓と連なっていて、櫓の中を見学できました。

石階段を上って中に入ります。

中からは先ほどの御門橋が良く見えます。

広島城やそれ以外の有名なお城の模型が置かれていました。

そして櫓の柱と梁。

すごいですね。

多門櫓の梁は丸太でしっかりと支えられています。

二の丸はかなり広いです。

さすが平城ですね。

こちらは表御門。

立派な入り口ですね。

そこから本丸に向かいます。

本丸に向かう手前に原爆に耐えて生きているユーカリの木がありました。

お堀の池です。

広島城は鯉城とも呼ばれています。

そして、ものすごい鯉がいますね。

いよいよ本丸へ。

この辺の石垣の整備は福島正則のころに行われたのでしょう。

石垣の後ろは石段が左右に分かれている合坂になっていました。

少し歩くと本丸の中に廣島護国神社がありました。

こちらでは巫女さんが境内を掃いています。

神社を越えると一段上がり、本丸御殿跡を通ります。

その先には天守閣が見えます。

本丸の端にありますが、カッコいいですね。

そびえ立つ感じが非常に良いです。

天守閣は大人370円で入れます。

天守閣の前には100名城スタンプが置かれていました。

天守閣に入らなくても押せるようになっているのはいいですね。

しっかりと押しました。

もちろん天守閣には入ります。

中に鯱があります。

そして、売店にはご城印が販売されていました。

せっかくなので、鯉城のご城印も購入しました。

こちらは広島カープも描かれています。

ご城印は自由度があっていいですね。

原爆により一瞬で倒壊した天守閣。

分かりやすい説明がたくさんあります。

天守閣の最上階である5階からは景色を見ることが出来ます。

広い堀の先にはビルがたくさん。

向こうのマンションからは広島城が毎日見ることが出来るんですね。

贅沢だなぁ。

窓は華頭窓。

おしゃれですよね。

クレーンもなくこの高さの建物を作るなんて、本当にすごいなぁと思います。

木造っぽく作られているところも非常に良いかと思います。

そして近くには、再建前に楚石を場所等同じように配置し、近くに保存されています。

こちらは広島大本営跡

戦争の遺構ですね。

この戦争の遺構についても、400年後とかにはお城と同じような扱いになるのでしょうか。

きっとならないでしょう。

帰りは裏御門の方から出ていきました。

非常に大きなお城でした。

 

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