「和歌山城」43城目@100名城 #和歌山県

■城名
和歌山城(わかやまじょう)

■別名
虎伏城、伏虎城、竹垣城

■所在地
和歌山県和歌山市一番丁

■見ごたえ

■称号
日本100名城

■築城年
天正13年(1585)

■廃城年
明治4年(1871)

■築城者
豊臣秀長

■主な改修者
浅野幸長、徳川頼宣

■主な城主
豊臣氏、浅野氏、徳川氏

■天守
外観復元天守

■天守構造
連立式層塔型[3重3階/1605年築/焼失(落雷)]
連立式層塔型[3重3階/1850年再/焼失(空襲)]
連立式層塔型[3重3階/1958年再/RC造外観復元]

■城郭構造
梯郭式

■城分類
平山城

■縄張
和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)山頂に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀としています。
本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城です。

■歴史
豊臣秀吉の弟・豊臣秀長は、1585年(天正13年)の紀州征伐の副将軍として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増されました。
当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら「吹上の峰」を城地に選定し、縄張りを行。普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、1年で完成させました。
この際に「若山」が「和歌山」と改められています。
1586年(天正14年)、桑山重晴に3万石を与え城代になり、本丸を中心に手直しを行い、1596年(慶長元年)重晴隠居に伴い孫の一晴が城代を継ぎます。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、東軍に属した桑山一晴は正式に紀伊和歌山に2万石を与えられましたが、まもなくして大和新庄藩に転封となりました。
その後、同じく東軍に属した浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城します。
幸長も引き続き城の改修を行い、1605年(慶長10年)頃、下見板張りの天守が建てられました。
その後、長晟が土塁から石垣に改修しました。
1619年(元和5年)、浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となります。
代わって徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立しました。
頼宣は兄の2代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始します。
徳川頼宣は1621年(元和7年)より城の大改修と城下町の拡張を始め、計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定でしたが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどでした。しかし、附家老安藤直次の弁明で事なきを得ます。
また、外堀も拡張して総構えにしようとしましたが、これも幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまったため、堀止の地名が残っています。
1655年(明暦元年)11月、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火し、西の丸・二の丸に延焼しました。
1813年(文化10年)には西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼しました。
1846年(弘化3年)7月26日に雷雨があり、天守曲輪に落雷し、御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼しました。
当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていましたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年(嘉永3年)に大小天守等が再建されました。
1871年(明治4年)、廃城令により廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築されました。
二の丸御殿は、1885年(明治18年)に大坂城へ移築され、1931年(昭和6年)より大阪市迎賓館(紀州御殿)として使用され、戦後米軍施設として使用中1947年(昭和22年)失火により焼失しました。

■遺構
曲輪、石垣、横堀(水堀)、門、塀、庭園
指定文化財
国重要文化財(岡口門・続塀)
国史跡(和歌山城)
国名勝(西の丸庭園)
市文化財(追廻門)”

■再建造物
天守、櫓、門、橋

■ご城印

■場所


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■城巡り記録

2023年8月20日

豊臣秀吉の弟、秀長が築城したお城、和歌山城に行ってきました。

平山城ですが、周りが平坦であるため、お城が一望できます。

夜はライトアップされて、山上にあるお城が綺麗に輝いています。

早速和歌山城を吹上口から入ってみます。

立派な石垣が幾重にも重なっていて、さすが徳川御三家のお城だと感じさせました。

するとボランティアの人が寄ってきて、案内していただけるとのことです。

子どもたちがいて、まともに話を聞かないだろうから失礼になるかなぁとも思ったのですが、以前一人でいった津山城で案内してもらった時に非常に為になる話をたくさん聞けたので、お願いしました。

真夏に行ったこともあり、暑すぎてあまりにも観光に来る人が少なかったそうです。

まずは砂の丸に。


こちらは砂地であったため水堀とすることが出来ずに難航した場所だとか。


確かに砂地の場所は水が吸収されてしまうため溜められないですね。そんなことも考慮しないといけないとはなかなか縄張りも難しいものです。

次に鶴の門跡の先にある鶴の渓へ。


石垣は野面積みで、大きな石がそのまま用いられている場所もあります。

これは斜面に埋まっていた石をそのまま活用したためとのこと。

まだ戦国時代で急いで築城しないといけないため、このような石垣が多いのだとか。

その先の石垣では微妙に出っ張ったところがあり、これを鎬(しのぎ)というそうです。


刀の広がった部分のことを鎬といって、鎬を削るとは刃先で打ち合ったら刃こぼれをするため、お互いに打ち合うときは鎬の部分をぶつけ合ったということからだそうです。

色々為になる話が聞けました。

この石垣の鎬は崖の形状に合わせて作られたためのもので、意味が合ったわけではないそうです。

よく石垣で凹んだ部分は四方から弓矢や鉄砲で狙い撃ちできるようにということなのですが、この鎬の部分はそこまで深い溝となっておらず、戦略的な意味を持たないとのこと。

その先には御橋廊下が見えました。

斜めにかけられた橋で偉い人しか渡れなかったとか。

その先の二の丸には御殿と大奥跡があります。

こちらの御殿は明治に入って大阪城に移築されたそうですが、焼失してしまいました。

和歌山城は別名虎臥城とも呼ばれています。


由来はこの山を虎伏山とよんでいたことからだそうです。

山の形が虎が伏しているような形状だからとのことですが、まぁ多くの山がそんな感じでしょう。

大手門・中門の横に水堀を船で案内してくれる場所があり、ここを楽しみにしていたのですが、残念ながらこの日は休みでした。

真夏だと夏休みでもお客さんはいないんですね。

もっとお城ブームになってもらいたい。

ただ、この乗り場の石垣に有名な桃の刻印があります。

これを見つけるだけでも面白いですね。

そこから天守に向かって上っていきます。


当時の石の形状をうまく利用した階段は横に歩きやすいスロープがありますが、ぜひ石段の方を上ってほしいです。

さらに、お城の中に動物園があるのは現在は少ないんですよ、とか、昔のマンホールが残っているのはお白の時代とは関係ないのですが、今や珍しいなどの雑学も教えてもらえました。

マンホールを人孔蓋と書くなんて、漢字すごいです。

そして天守がみえる丘に先に登って記念撮影。


そこから天守へ。


天守の角の位置がずれているのが特徴とのことです。

確かに見上げてみると屋根の位置がずれていますね。

これは建物自体の作りが階ごとに正方形で無いためとのこと。

普通なら気が付きません。

屋根に桃があるので、見つけると面白いですよと言われて探してみたら、結構たくさんあります。


修学旅行生とかの案内でこの話をすると、お城を見ずに桃探しをしてしまうためしないのだとか。

たしかにそうなりますよね。

日本三大連立天守はすごい作りです。

景色もよく、お城自体もかっこいい。


フォトジェニックなお城に選ばれたそうですが、よく分かります。

帰りは御橋廊下の中を歩かせてもらいましたが、かなりの傾斜で廊下にいたが張り付けてなかったら滑り落ちるところです。

非常に楽しめるお城でした。

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