「守山城」192城目@日本の城 #滋賀県

■城名
守山城

■別名
近江 守山城

■所在地
滋賀県守山市守山1丁目

■見ごたえ

■築城年
応永8年(1401年)

■築城者
宇野一元

■城分類
平城

■遺構
なし

■歴史(ChatGPTより)

守山城 は、現在の滋賀県守山市に存在した中世城郭であり、現在の大光寺周辺から金森川付近にかけて築かれていたとされる。現在では明確な遺構はほとんど残されていないが、かつては土塁や堀跡が確認され、周囲より一段高い地形に往時の城郭の痕跡を見ることができたという。

守山城が築かれたのは、応永8年(1401年)と伝えられており、築城者は 宇野一元 である。宇野氏は近江国に勢力を持った国人領主で、守山周辺を支配していたと考えられている。当時の近江は、守護大名である 六角氏 の勢力下にあり、多くの国人領主が複雑な主従関係の中で勢力争いを繰り広げていた。守山城もそうした戦国前夜の地域支配の拠点として築かれた城であった。

その後、守山城には六角氏一族の 種村道成 が入城した。種村氏は六角氏の有力家臣であり、守山城は六角氏による湖南支配の重要拠点となった。当時の守山は、中山道や琵琶湖水運にも近く、交通の要衝として重要な位置を占めていた。そのため、守山城は軍事的価値だけでなく、流通や地域支配の拠点としても機能していたと考えられる。

しかし戦国時代後期になると、近江にも 織田信長 の勢力が進出する。永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を奉じて上洛を開始し、その過程で近江の六角氏と対立した。守山城もこの戦いに巻き込まれ、信長軍によって攻撃を受け落城したと伝えられている。これは信長による近江平定戦の一環であり、六角氏勢力は急速に衰退していった。

近江平定後、信長は京都と岐阜を結ぶ交通路の安全確保を重視し、各地の城郭整備を進めた。守山城もその一つであり、修築が施されたうえで、家臣の 稲葉貞通 が守将として配置された。守山は東海道・中山道と琵琶湖交通を結ぶ要地であり、京へ向かう軍勢や物資輸送を支える軍事拠点として利用されたのである。

ただし、信長の築いた 安土城 をはじめとする近世的巨大城郭と比較すると、守山城はあくまで地域支配のための中規模城郭であったとみられる。それでも、近江支配の過程を示す城として重要であり、中世から近世へ移行する時代の変化を物語る存在となっている。

現在、守山城跡には大規模な遺構は残っていない。しかし、昭和中頃までは堀跡や土塁の痕跡が確認されていたとされ、地形にもわずかな高低差が残る。都市化の進行によって姿は失われたが、守山城は戦国期近江の政治・軍事の動きを伝える貴重な歴史遺産である。

■場所

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■城巡り記録

2026年4月29日

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 旅行ブログ 日本遺産へ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

人気ブログランキング

お城巡りランキング

お城・史跡ランキング

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする