「二条古城(にじょうこじょう)」188城目@日本の城 #京都府

■城名
二条古城(にじょうこじょう)

■別名
旧二条城

■所在地
京都府京都市上京区五町目町

■見ごたえ

■築城年
永禄12年(1569)

■廃城年
天正元年(1573)

■築城者
織田信長

■主な城主
足利氏

■城分類
平城

■遺構
消滅

■歴史(ChatGPTより)

二条古城 は、現在の京都市上京区付近に存在した戦国時代の城郭で、一般には「旧二条城」「二条御所」とも呼ばれる。現在広く知られている 元離宮二条城 とは別の城であり、室町幕府最後の将軍である 足利義昭 の政庁として重要な役割を果たした。

二条古城の起源は1568年、 織田信長 が足利義昭を奉じて上洛したことに始まる。信長は義昭を将軍職に就けると、その居館兼政庁として京都二条に新たな城郭を整備した。これが二条古城である。場所は現在の京都御苑南西部周辺とされ、当時の京都において政治と軍事の中心地となった。

この城は、単なる将軍邸宅ではなく、戦国時代特有の軍事的緊張を背景に築かれた“武家政権の要塞”でもあった。室町幕府は既に権威を失っており、義昭は信長の軍事力に依存して政権を維持していた。そのため二条古城には堀や石垣、櫓などが備えられ、京都中心部に築かれた平城として高い防御性を持っていたと考えられている。

しかし、義昭と信長の関係は次第に悪化する。義昭は反信長勢力と結びつき、各地の大名に「信長包囲網」形成を呼びかけた。これに対し信長は圧力を強め、1573年には義昭を京都から追放する。これによって室町幕府は滅亡し、二条古城も将軍御所としての役割を終えた。

その後、二条古城は信長自身の京都拠点として再整備される。特に1576年頃には大規模改修が行われ、豪壮な石垣や御殿を備えた近世城郭へ発展したとされる。これは後の安土城に通じる織田政権の権威表現でもあり、「城を見せる政治」が京都でも展開されていたことを示している。

1582年、本能寺の変が発生すると、信長の嫡男である 織田信忠 が二条古城へ立て籠もった。明智軍に包囲された信忠は奮戦したが、最終的に自害する。この「二条御所の戦い」は、本能寺の変と並ぶ重要事件であり、織田政権中枢が一日で崩壊した象徴的場面でもあった。二条古城はこの戦火によって焼失したと考えられている。

二条古城の正確な縄張りや構造については、現在も研究が続いている。発掘調査では石垣跡や堀跡が確認されており、従来考えられていた以上に本格的な城郭だった可能性が高まっている。また、京都御苑周辺からは戦国期の遺構や瓦も出土しており、当時の城郭都市京都の実態解明が進みつつある。

この城は、室町幕府最後の政治舞台であり、同時に織田政権成立の象徴でもあった。さらに、本能寺の変後には織田信忠最期の地ともなり、日本史の転換点を幾度も目撃している。現存遺構こそほとんど残っていないものの、二条古城は「中世京都から近世京都への移行」を象徴する極めて重要な城郭であったと言える。

■場所

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■城巡り記録

2026年4月29日

石碑だけありました。

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