「伊賀上野城」@三重

■城名
伊賀上野城

■所在地
三重県伊賀市上野丸之内

■称号
日本100名城

■別名
白鳳城、上野城

■築城年
天正13年(1585年)

■廃城年
明治4年(1871年)

■築城者
筒井定次

■主な改修者
筒井定次、藤堂高虎

■主な城主
服部氏、仁木氏、筒井定次、脇坂安治、藤堂氏

■天守

■天守構造
不明5重(完成間近に倒壊)
層塔型3層3階(模擬、木造・1935年築)”

■城郭構造
梯郭式

■城分類
平山城

■縄張り
上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城。
北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にあります。
かつて上野城の場所には要塞としても利用された平楽寺や仁木氏館がありました。
織田信雄(北畠信雄)の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築いたが、小牧・長久手の戦いの際に脇坂安治によって落城させられました。
その後天正13年(1585年) に筒井定次によって改修を受け、慶長16年(1611年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張しましたが、大坂の陣によって、当時高虎が従属する家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごしました。

■歴史
●平安時代
城のある丘は平清盛の発願によって建立された平楽寺という大寺院があったと言われています。

●室町時代
伊賀上野城西の丸と後世に呼ばれることとなる丘陵には伊賀の守護大名である仁木氏館(伊賀の守護所)がありました。
しかし仁木氏は室町時代半ばから衰退が始まり、戦国時代には名ばかりの守護となっていました。
特に北・南伊賀には影響が及ばなくなり(仁木氏は伊賀中部に威力があった)、権威を回復しようと合戦を起こすもその都度敗走し、柘植氏と戦った際には当主が討たれました。
遂に仁木氏の生活は貧窮を極め、伊賀中部の国人らの援助により体を成す有様で守護としての権威は没落、侮辱の対象とされるなど、領国経営は機能していませんでした。
そのような状況にありながら、仁木兵部少輔は家宝として茶器を購入したり、実状に相応しくない行動が多くなり、これに怒った豪族らが守護所を襲撃。
仁木一族は信楽へ逃れ、大名としての仁木氏は一時滅亡しました。
後に仁木義視が織田信長の援助で守護に返り咲きましたが、国人の支持を得られず再び追放され伊賀は反織田の姿勢を明確にした(伊賀惣国一揆)。

●戦国時代

織田信雄像
天正7年(1579年)9月、伊勢の織田信雄が8千兵を率いて伊賀平定(天正伊賀の乱)に乗り出したが、伊賀衆の前に敗れ、天正9年(1581年)9月に信雄の父織田信長は4万5千の兵で伊賀を平定。

信雄の家臣である滝川雄利を伊賀守護としました。
雄利は大寺院、丸山城、滝川氏城を改修し伊賀を支配しました。
本能寺の変後豊臣政権となると、天正12年(1584年)10月に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣脇坂安治が伊賀守護となりましたが、天正13年(1585年)5月に摂津に移封されました。

筒井氏時代

脇坂安治の移封から3ヶ月後の8月、大和郡山城から羽柴の姓を賜った筒井定次が伊賀へ移り住みました。
定次は天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺、仁木古館跡に築城することにしました。
「迅ニ上野之駅ニ入来シ仁木友梅ノ舗地ヲ囲、仮ニ草館ヲ造立シ?比ニ幽栖ス。而後数千ノ役夫ヲ催、平楽寺・薬師寺ニケ場ノ荒地ヲ点シ、文禄年中ニ一城ヲ造畢ヌ。三層ノ高楼ヨリ内外ノ曲輪要害太厳重也」(『伊水温故』)とあり、城は高丘の頂上を本丸とし、三層の天守を建て、本丸の西に二ノ丸、北の山下を三の丸を配し、大手を三の丸の北谷口としました。
城代屋敷の北東隅に筒井時代の天守があったと考えられています。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると定次は東軍の徳川家康方につき会津征伐に参戦し、上野城は筒井玄蕃が留守居役としましたが、上野城を西軍の摂津高槻城主新庄直頼・直定父子に攻撃された際、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡しました。
定次は家康の許しを得て直ちに軍を引き返し、城を再奪取し事なきを得ました(上野城の戦い)。

関ヶ原の戦い後、新庄直頼父子は改易され定次は本領安堵、伊賀上野藩を立藩しました。
しかし、家康は大坂城を包囲する必要に迫られ、近江彦根城同様重要な地点である上野城を強固にすべく、家康は定次をかねてから不行状で島清興などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、慶長13年(1608年)6月に領地没収、磐城平城主鳥居忠政のもとに預けました(筒井騒動)。
一説には、定次がキリシタン大名で棄教を聞き入れなかったためとも言われています。

藤堂氏時代
同年8月、伊予宇和島城から築城の名手とされる藤堂高虎が伊賀に入国しました。
大坂城に対抗する以外にも、大和・紀伊を抑えるためにも高虎の力が必要となったと思われています。
高虎は慶長16年(1611年)正月より、上野城を大幅な改修に着手、大坂方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそぎました。

「本城の西の空地を築挙げ広め、西に幅十五間の深溝を掘り、高さ根石より十五間の高塁、南北押廻して百八十六間の石塁を築き、南北の両隅に櫓台を制し、是までの本城と合せて新に本丸とし、南面にして南北に二口を開く南側の東西百三十間とし、北側の東西百三十一間とす。東側は乾堀共旧きを用い、西側は幾度新に南北百三十九間とす。比高塁摂坂の城塁より見事なり」(『公室年譜略』)としています。
この「摂坂の城」とは豊臣時代の大坂城のことを指しており、高石垣の規模の大きさを物語っています。
南側を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を構築し、天守の位置を西側に移動し、今治城天守を移築しようとしましたが、天下普請となった丹波亀山城に献上したため新規に5層天守を建設しました。
筒井時代は、上野城は大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、藤堂時代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立場をとった城とされています。

東西十三間、南北十一間、高さ五間の天守台を築きました。
天守閣の建設は五人の大工棟梁の分担工事とし、互いを競わすなどされていましたが、完成をひかえた慶長17年(1612年)9月2日、大嵐のため三層目が西南に吹き倒れ、その上に五層目が落ち天守は倒壊しました。
大工や人夫合せて約180名が倒死、また多数の怪我人をだしました。

慶長19年(1614年)、元和元年(1615年)の2度に渡る大坂の陣で家康の勝利となり、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなり天守は再建されませんでした。
本丸に櫓は建てられませんでしたが、外堀の土塁上には、二層櫓が二棟、単層櫓が八棟、計十棟の櫓が建てられ、長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門も建てられました。
高虎は大坂の陣が終わった後、交通の便利がいい津城を本城とし、上野城を支城としました。

一国一城令で上野城は伊賀の城として存続が認められると、高虎は弟の藤堂高清を城代とし、高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政8年(1825年)に藤堂高猷が最後の城主となるまで藤堂氏の世襲としました。

■見どころ
(遺構) 石垣、堀、武具蔵
(指定文化財) 国史跡 俳聖殿(国の重要文化財) 天守は伊賀市指定有形文化財
(再建造物) 天守(模擬、木造)

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