「長篠城」#愛知

■城名
長篠城

■所在地
三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)

■称号
日本100名城

■別名
末広城、扇城

■築城年
永正5年(1508年)

■廃城年
天正4年(1576年)

■築城者
菅沼元成

■主な改修者
奥平信昌、徳川家康

■主な城主
菅沼氏、奥平氏

■天守
なし

■天守構造

■城郭構造

■城分類
平城

■縄張り
この地域の交通の要衝の地にあり、寒狭川(現在「豊川」と呼ばれているもの)と大野川(現在の宇連川)が合流する場所に突き出した断崖絶壁の上にあり、(南や東西方向については)二つの川と断崖絶壁に守られた天然の要塞でした。

長篠の戦いのころの構造は、本丸のすぐ北側には堀が掘られ、その北側に二の丸、そのすぐ北側にまた堀が掘られていました。
二の丸外側に三の丸、弾正曲輪などがあり、本丸の西側に服部曲輪があり、野牛曲輪なども築かれ、城域を北側を囲むように木柵が作られていました。
川と断崖のおかげで南と東西の守りは堅かったが、北側は(台地状に)平地が広がっておりそのままでは守りが弱かったので、そちらにはしっかりとした堀が掘られていました。

南や東西から見れば断崖絶壁上の城ですが、北側から見た姿をもってして「平城」に分類されることもあります。

■歴史
永正5年(1508年)今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。
元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城とします。
その後、徳川家康に服属するようになり、元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められます。

攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れ、その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈しました。

元亀4年(1573年)、武田家の当主であった武田信玄の病が悪化したことにより、前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退。
その途中で信玄は死去。
その間隙に徳川家康によって攻められ、城主・正貞は天正元年8月(1573年)には開城退去、城に返り咲くことはありませんでした。
以後、武田軍の再侵攻に備えて、家康により城が拡張されます。

天正3年5月21日(1575年6月29日)、父・信玄の跡を継ぐことになった四男・武田勝頼が持てる兵力の大半1万5千の兵を率いて、奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まます。

天正4年(1576年)前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となりました。

■見どころ
(遺構) 曲輪、土塁、空堀、石垣
(指定文化財) 国の史跡(城跡の一部

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