「久保田城」#秋田

■城名
久保田城

■所在地
秋田郡久保田

■称号
日本100名城

■別名
矢留城、葛根城、秋田城

■築城年
1604年(慶長9年)

■廃城年
1880年(明治13年)

■築城者
佐竹義宣

■主な改修者

■主な城主

■天守
佐竹氏

■天守構造
なし

■城郭構造
平山城

■城分類

■縄張り
雄物川の支流である旭川の左岸、程野村窪田にある神明山(しんめいやま、標高40m)に築かれた平山城。
石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており(鉢巻土手)、天守も持たず塁上に「出し御書院」(だしおしょいん)または「御出書院」(おだししょいん)と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた

神明山には安東氏(秋田氏)配下の三浦氏(川尻氏)が所在し、氏神として総社大明神・神明宮・別宮攝末社を奉っていた
三浦氏の城は「鎗留ノ城」「矢留ノ城」と呼ばれ、久保田城の別名の由来になっている
また、神明山の名も神明宮に由来する。更に古くは、大嶽山・小嶽山・光明山の3つの頂がある様から三森山(みつもりやま)または三嶽山(みたけやま)と呼ばれていた

■歴史
江戸時代後期から明治時代の公式文書では「秋田城」と書かれることも多かったが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城である。
1644年1602年(慶長7年)9月17日 – 久保田藩初代藩主である佐竹義宣、秋田氏の居城であった湊城に入城。
矢留ノ城には重臣の石塚義辰(大膳)が入り、「大膳屋敷の山」とも呼ばれるようになる。 湊城は平城で防衛に向かないうえ、54万石規模の家臣団を抱えていた佐竹氏にとって秋田氏5万石(ほか蔵入地2万5000石)の城は手狭であり、これが久保田城築城の理由となった。

■見どころ
(遺構)土塁、堀、門、番所
(再建)本丸新兵具隅櫓、本丸表門

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 旅行ブログ 日本遺産へ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

人気ブログランキング

お城巡りランキング

お城・史跡ランキング

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする