「大阪城」29城目@100名城 #大阪府

2021年4月4日

■城名
大坂城

■所在地

■称号
日本100名城

■別名
錦城、金城

■築城年
1583年(天正11年)

■築城者
豊臣秀吉

■主な改修者
徳川秀忠

■主な城主
豊臣氏、奥平氏、徳川氏

■天守
復興天守

■天守構造
複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階(1585年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(1626年築)
いずれも非現存
独立式望楼型5重8階(1931年復興・SRC造)

■城郭構造
輪郭式

■城分類

平城

■縄張り
安土桃山時代に上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に再築された日本の城。

「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没しています。

現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構です。

1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確定しています。

かつて、この地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもありました。

徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、天下普請を行い藤堂高虎を総責任者とする。全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれました。

また天守など建物も構造を踏襲せずに独自のものに造り替えることになりました。

こうして大坂城天下普請が始まりました。

豊臣大坂城は当時においては30年以上前の「古い城」であり、朝鮮の役・関ヶ原合戦・大坂の陣の戦訓と天下普請を通じて発達した城郭技術に応じた新たな城が求められました。

天下普請の結果、城郭の面積は豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、幅広の外堀をめぐらせ、天守はその高さも総床面積も豊臣氏のそれを超える規模のものが構築されました。

本丸に東南隅櫓、南の手櫓、西の一番櫓、南西隅櫓、数寄屋前櫓、御成門之内櫓、埋門向櫓、北の手櫓、糒櫓、月見櫓、馬印櫓、二の丸に伏見櫓と三重櫓の数は江戸城をしのぐ12基を数え、本丸東面の石垣の高さは日本一のものとなりました。

また放棄された総構も畑や空き地として再建が可能な形で維持されました。

昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号です。

■歴史

元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺がありましたが、1580年(天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失しました。

この石山(大坂)の地は、西日本を押さえるにも優れていたため、『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価し、跡地にさらに大きな城を築く予定でした。

石山合戦終結後の同地は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣しました。

一時的な野戦的布陣ではなく、「千貫矢倉」などの建物もあった(『細川忠興軍功記』)ことから、一軍が長期駐屯できるほどの設備が構築されていたと推測されています。

信澄は本能寺の変の発生後、丹羽長秀に討たれました。

その後、清洲会議で池田恒興に与えられるも、恒興がただちに美濃へ国替えとなったため、秀吉の領有となりました。

1583年(天正11年)から羽柴(豊臣)秀吉によって築城が開始され、羽柴家(豊臣氏)の本拠地となりました。

一般には大坂城が豊臣政権の本拠地と解されますが、実際には1585年(天正13年)には秀吉は関白に任ぜられ、翌86年(天正14年)には関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設して翌年の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して亡くなるまで伏見において政務を執っています。

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで石田三成が敗れた結果、徳川家康によって東軍への恩賞という形でその所領が分配されたため、220万石の大大名から摂河泉65万7千400石の一大名に転落した豊臣氏でしたが、遺児の豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としていました。

しかし、1614年(慶長19年)に勃発した大坂冬の陣において、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまいます。

秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡しました。

落城後の大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられましたが、忠明に課せられた任務は大坂城下の復興であり、城そのものにはあまり手が加えられる事はありませんでした。

1619年(元和5年)に忠明は大和郡山へ移封となり、江戸幕府は大坂藩を廃止して大坂を幕府直轄領(天領)にすると、翌1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭します。

大坂城再築工事は主に西国大名を中心に1620年(元和6年)からの第一期工事では47大名を動員して西の丸、二の丸北部・東部、三の丸、1624年(元和10年)からの第二期工事で58大名を動員して本丸一帯を、1628年(寛永5年)からの第三期工事では57大名が動員されて二の丸南部、と実に3期足かけ9年にわたる普請によって1629年(寛永6年)に完成しました。

江戸時代中には三度の落雷による損傷と修復を繰り返しました。

一度目は1660年7月25日(万治3年6月18日)、城内青屋門近くにあった土蔵造りの焔硝蔵(火薬庫)に落雷して大爆発が起き、貯蔵中の2万1985貫600匁(約82.4t)の黒色火薬のほかに、鉛弾43万1079発、火縄3万6640本が焼失しました。

二度目は1665年(寛文5年)正月2日で落雷を天守北側の鯱に受けて天守を焼失し、竣工40年あまりで天守は姿を消し、以後は天守を持たない城でした。

三度目は1783年(天明3年)10月11日で、大手多聞櫓に落雷が直撃し全焼。幕府の財政難のため再建は1845年(弘化2年)からの町人御用金による総修復まで待つこととなりました。

江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していましたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されました。

この前後の混乱のうちに出火し、本丸御殿以下本丸にあった11基の三重櫓や桜門、山里門、姫門など本丸のすべての門、二ノ丸の巽、艮、太鼓、四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失しました。

■見どころ
(遺構)櫓、門、石垣、堀

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■城巡り記

コロナ過により大阪は明日よりマンボウが発令されます。

そんな中の大阪への出張。

サラリーマンは仕方ないですね。

それでも、楽しみもあります。

大阪城のすぐ近くのホテルに泊まることで、夜の大阪城に行くことが出来ました。

夜の大阪城はライトアップされています。

ちょうど桜が咲いている時期だったのも良かったです。

手前の桜とお堀の先に見える天守閣、非常に良い構図です。

20時過ぎでしたが、人はかなりいました。

開放されているのは外周だけかなと思っていたのですが、かなり中まで入れます。

天守の手前まで行くことが出来ました。

すごいですね。

江戸城とは大違いです。

それにしても石垣が見事です。

これらの石垣は徳川時代のものらしいですが、見事としか言いようがないです。

櫓門、隅櫓を観ながら天守に向かいます。

大阪城といえば巨石ですが、この中でも最大のものと言われているのが「蛸石」です。

店主の手前の門を入ってすぐの正面にありますが、これは本当に大きかったです。

予想していた以上に大きい。

上田城の真田石なども巨石と言われていますが、スケールがまるで違いました。

最後に天守のライトアップをみて本日は終了です。

夜の大阪城を堪能しました。

翌々日の朝に今度は明るい大阪城を見に行きました。

夜もいいですが朝もいいですね。

天守閣の入場は9時からなのですが、早くきすぎてしまったので散策します。

大坂城の大手門。

こちらは重厚な作りです。

重要文化財にもなっています。

大手門をくぐった枡形の場所には巨石があり、その横には桜が咲いていてきれいです。

こちらも大きな石ですね。

大手門をくぐって少し歩くと本丸につながる桜門につながります。

この堀を渡る傾斜は攻め込まれたときの責め難さを考えられており、すごいものです。

さらにここから天守が見えます。

これもしっかりと計算されたものでしょう。

向かいにある天守の下の石が、最大の巨石蛸石です。

近づいてみるとものすごい大きさでした。

江戸時代にどうやってこんな巨石を運んだのか、不思議で仕方ありません。

その先には天守があります。

昨日も夜来ていたのですが、昭和に作られたものとはいえ、立派なものです。

大坂城に来るのは高校生以来ですので、25年以上経っています。

当時は何も考えずに来たなぁ。

徳川が作った大阪城は堀の幅を広くしたので、より見栄えの良いお城になっている気がします。

そんな大坂城ですが、外の石垣にもエレベーターが付いています。

そして、お城の中もエレベーターが設置されています。

エレベーターが設置されたお城はいかがなものかと思っていたのですが、まぁそれはそれでいいのではないかと最近は思ってきました。

季節も良くて、桜が綺麗です。

大坂城といえば巨石ということで、巨石一覧がお城の中にありました。

こんな大きな石があるなんて驚きです。

それをうまく石垣に使うんですから、すごい技術だと思いました。

大坂城、堪能しました。

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