「駿府城」#静岡

■城名
駿府城

■所在地
静岡県静岡市葵区

■称号
日本100名城

■別名
府中城、静岡城

■築城年
1585年(天正13年)

■廃城年
1869年(明治2年)

■築城者
徳川家康

■主な改修者
徳川家康

■主な城主
徳川氏、中村氏、内藤氏(松平氏)

■天守

■天守構造
不明(1589年築)
慶長1期(1607年再)
慶長2期(7階・1610年再”

■城郭構造
輪郭式

■城分類
平城

■縄張り

■歴史
14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地でした。
文明8年(1476年)、今川義忠が戦死すると、後継者の龍王丸(後の今川氏親)の後見人である伊勢盛時(北条早雲)と一門の小鹿範満が対立、盛時は今川館の範満を襲って龍王丸を当主に据えました。
天文5年(1536年)、花蔵の乱にて氏親の子である今川義元が今川館の主となります。
今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領国支配を行いましたが、桶狭間の戦いで義元が戦死すると甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消されます。
永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻にて、今川氏真の今川館は焼失しました。
今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなりましたが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有しました。
天正13年(1585年)から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直されます。
この時に初めて天守が築造されました。
その後天正18年(1590年)、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城します。
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、当時駿府藩を治めていた内藤信成に代わって駿府に隠居します(それにより駿府藩は一時的に廃藩となりました)。
しかし、政治的影響力を持ち続けたため大御所と呼ばれました。
このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成しました。
1607年(慶長12年)に、城内からの失火により、完成して間もない本丸御殿を焼失しましたが、その後直ちに再建工事が開始され、1610年(慶長15年)完成しました。
天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模で、天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となっていました。
1609年(慶長14年)に家康の十男・徳川頼宣が50万石で入封し駿府藩が復活しましたが、1633年(寛永10年)以降は明治維新まで幕府の直轄地となり駿府城代が置かれました。

■見どころ
(遺構) 石垣、堀
(再建) 巽櫓、東御門、坤櫓

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