「彦根城」@滋賀

■城名
彦根城

■所在地
近江国犬上郡彦根(現在の滋賀県彦根市金亀町)

■称号
日本100名城、現存12天守、国宝5城

■別名
金亀城

■築城年
1622年  (元和8年)

■廃城年
1874年(明治7年)

■築城者
井伊直継

■主な改修者

■主な城主
井伊氏

■天守
現存天守

■天守構造
複合式望楼型 3重3階地下1階(1604年築)
■城郭構造
連郭式

■城分類 平
山城

■縄張り

■歴史
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城しました。
佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城でしたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったといいます。
このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していましたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去しました。
家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始しました。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請でした。
1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城しました。
大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始されました。
この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成しました。
その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

なお、彦根城を築くにあたり大津城、佐和山城はじめ近江国の諸城を移転や破却をし、城の建設物に利用したとされます。
結果として彦根藩には彦根城しか残らず、大老も出す譜代筆頭の井伊氏が諸大名に一国一城令を守る手本を示した格好になりました。
筆頭家老・木俣家は1万石を領していたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていたといいます。
徳川統治下の太平の世においては、城郭という軍事施設の存在理由がなくなり本来の目的とは違った使われ方をしていました。
西国大名の抑えとして徳川幕府の重要な軍事拠点だった彦根城ですが、主な機能は政治の舞台や年貢米の保管となり天守や櫓は倉庫等として使う以外には使い道はなかったようです。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直されました。
向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣です。

幕末に幕府大老を務めた井伊直弼は、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしています。
その時に住んだ屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存しています。

明治維新後、廃藩置県によって各藩の城郭はそれまでの機能を失い、建築物としても「無用の長物」となり、その多くが廃城令により廃城となりましたが、彦根城は当初陸軍省管轄下の施設となったため維持されました。
しかし老朽化していたため、結局民間へ売却されて破却される予定となりましたが、明治11年の明治天皇の彦根行幸の際に供奉していた参議大隈重信が天皇に働きかけた結果、天守や櫓の保存が決定し、さらに陸軍省管轄の施設から皇室付属地彦根御料所となり、最終的には最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜されて保存されました。

■見どころ
(遺構) 現存天守、 櫓、門、塀、馬屋、石垣、土塁、堀
(指定文化財) 国宝(天守等2棟)、重要文化財(櫓、門、馬屋等5棟)、特別史跡
(再建) 御殿

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