「掛川城」#静岡

■城名
掛川城

■所在地
遠江国佐野郡掛川(現在の静岡県掛川市掛川)

■称号
日本100名城

■別名
懸川城、懸河城、雲霧城、松尾城

■築城年
文明年間(1469年-1487年)

■廃城年
1871年(明治4年)

■築城者
朝比奈泰煕

■主な改修者
山内一豊

■主な城主
朝比奈氏、山内氏、太田氏、石川氏

■天守

■天守構造
不明3重(1621年再建 非現存)
複合式望楼型3重4階(1996年 木造復元”

■城郭構造

■城分類
平山城

■縄張り
朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるもの
本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城

■歴史
室町時代中期の文明(1469年 – 1487年)年間に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられています
当初は龍頭山より北東にある子角山に築かれており、龍頭山の城は1513年に新たに築城されました。
そのまま朝比奈氏が城代を務め、泰煕の子孫である朝比奈泰能・朝比奈泰朝が代々城を預かりました。
1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主君の今川氏真が甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、本拠地たる駿府館を捨てて泰朝のいる掛川城に逃げ延びます。
このため掛川城は徳川勢の包囲に遭いましたが、泰朝はよく城を守ったためなかなか落城しませんでした。
しかし、兵数の差もあって和議で氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断しました。
氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、相模国の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入りました。
間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、掛川城に程近い牧之原台地に諏訪原城を築き、さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となります。
しかし掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けました。
その後も掛川城は石川氏が城代を務めましたが、1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入りました。
一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭としました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転します。
その後、掛川城には多くの譜代大名が入りましたが、最終的には太田氏(太田道灌一族の系統)が入り、何度か城の修築も行われています。
ところが、幕末の1854年(安政元年)末に、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊しました。
この際、政務所である二ノ丸御殿は1861年(文久元年)までに再建されましたが、天守は再建されることはありませんでした。

■見どころ
(遺構)二の丸御殿・太鼓櫓(移築)・大手門番所(移築)・石垣・土塁・堀(いずれも一部)
(指定文化財) 国の重要文化財(二の丸御殿)
(再建造物) 天守・門

●天守
1604年(慶長9年)の大地震で倒壊し1621年(元和7年) に再建されましたが、1854年(安政元年)旧暦11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。その後、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみでした。
1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建し、掛川のシンボルとなっています。

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