「新井城(あらいじょう)」171城目@日本の城 #神奈川県

■城名
新井城(あらいじょう)

■所在地
神奈川県三浦市三崎町小網代

■見ごたえ
★★

■築城年
鎌倉時代後期

■廃城年
天正18年(1590)

■築城者
佐原(三浦)氏

■主な城主
三浦氏、後北条氏

■城分類
平山城

■遺構
曲輪、堀切、虎口、土塁、横堀(空堀)

■歴史(ChatGPTより)

新井城(あらいじょう)は、三浦半島西岸の要衝に築かれた城で、相模三浦氏の最末期を象徴する重要な拠点である。城跡は小網代湾と油壺湾に挟まれた岬状の高台(標高約26m)に位置し、現在は東京大学の臨海実験所付近が本曲輪と考えられている。一方で三浦市の遺跡地図では、岬先端から内陸の小網代地区までを含む広大な範囲が「新井城跡」とされており、単なる一郭の城ではなく、広域に及ぶ拠点であったことがうかがえる。

また南東約2kmには 三崎城 があり、両者の関係は近年の研究で見直されている。従来は別個の城とされてきたが、三浦氏時代には両者を含めた広域が「三崎城」として一体的に機能し、後北条氏が海側を改修・強化したことで、新井城(旧来の内陸側拠点)と三崎城(海側の新拠点)に分化したと考えられている。

歴史上特に有名なのが、戦国初期の籠城戦である。明応3年(1494年)、三浦氏内部の争いを経て 三浦義同 ・義意父子が城主となるが、やがて小田原の 北条早雲 (伊勢宗瑞)の侵攻を受ける。永正9年(1512年)から約3年にわたり籠城戦が続いたが、ついに落城し、相模三浦氏はここに滅亡した(新井城の戦い)。

この戦いには有名な伝承があり、討ち死にした三浦一族の血で海が黒く染まり、それが「油壺(あぶらつぼ)」という地名の由来になったと語られている。ただし、これは後世の俗説とされる。

その後、新井城は後北条氏の支配下に入るが、城の中心は海防に適した三崎側へ移っていったと考えられる。そして1590年の 小田原征伐 により後北条氏が滅亡すると、新井城も廃城となった。

新井城の特徴は、その立地にある。三方を海に囲まれた岬という地形は天然の要害であり、補給や脱出に海路を活用できる「水軍的城郭」としての性格が極めて強い。これは三浦氏が海上勢力としても活動していたことを示す重要な証拠でもある。

このように新井城は、三浦氏の終焉の舞台であると同時に、三崎城と一体となった広域拠点の中核として、中世東国における「城」のあり方(生活・軍事・海上拠点の複合体)をよく示す城であったといえる。

■場所

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■城巡り記録

2026年3月20日

 

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