■城名
田中城(たなかじょう)
■別名
亀甲城、亀井城、徳之一色城
■所在地
静岡県藤枝市田中
■見ごたえ
★★☆
■築城年
天文6年(1537年)
■廃城年
明治元年(1868年)
■築城者
今川氏
■主な改修者
山県昌景
■主な城主
今川氏、一色氏、武田氏、本多氏
■天守
非現存
■天守構造
本丸二階櫓(独立式層塔型二層二階)
■城郭構造
輪郭式
■城分類
平城
■縄張
同心円状の堀
田中城の堀は本丸を中心とした同心円状に配置されており、3重の堀で守られていました。この構造は、防御力を高めるために効果的でした。
丸馬出し
二の丸および三の丸の外側には、計6箇所の丸馬出しが設けられていました。これも武田氏流の特徴で、城の防御を強化するための工夫です。
現在の状況
教育施設の設置
現在、本丸および二の丸の跡地には西益津小学校が、三の丸の跡地には西益津中学校が設けられています。そのため、遺構の保存状況は必ずしも良くありませんが、一部の水堀および土塁が残っています。
移築された遺構
不浄門: 旭傳院(焼津市保福島680)の山門として移築されています。
長楽寺村郷蔵: 「史跡田中城下屋敷」の有形文化財として移築され、現存しています。
江戸時代の城絵図
田中城の江戸時代の城絵図は、藤枝市郷土博物館・文学館に所蔵されています。具体的には以下の2点です。
駿河国田中城絵図
古図
これらの絵図は、田中城の歴史的な配置や構造を理解するための貴重な資料です。”
■歴史
築城と今川氏の時代
田中城は、永禄年間(1558年-1570年)に駿河国の守護大名であった今川氏によって築かれました。今川氏は駿河・遠江・三河を支配しており、田中城はその防衛拠点として重要な役割を果たしました。
武田氏と徳川氏の争奪
永禄12年(1569年)、今川氏が滅亡すると、田中城は武田信玄の支配下に入りました。武田氏は駿河を制圧し、田中城を含む多くの城を支配しましたが、信玄の死後、その勢力は次第に弱まりました。
天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れた武田氏は、田中城を含む駿河国の領地を失いました。その後、徳川家康が城を掌握し、駿河国の支配を確立しました。
江戸時代
江戸時代に入ると、田中城は江戸幕府の直轄領として使用されました。駿河国の統治拠点の一つとなり、田中藩が設置されました。藩主の居城としても利用され、幕府の統治や治安維持に貢献しました。
構造
田中城は平城で、城郭は本丸、二の丸、三の丸から成り立っていました。周囲には堀が巡らされ、防御力を高めていました。また、城内には庭園や櫓、御殿などが設けられ、武家屋敷としての機能も備えていました。
現在
田中城跡は現在、静岡県藤枝市田中に位置し、一部は「田中城址公園」として整備されています。城跡は国の史跡に指定されており、公園内には散策路や説明板が設置されているため、訪れる人々がその歴史を学びながら楽しむことができます。また、復元された門や土塁、堀などを見ることができ、往時の姿を偲ぶことができます。
田中城は、戦国時代から江戸時代にかけての歴史的な変遷を物語る貴重な遺構であり、地域の歴史や文化を理解する上で重要な場所となっています。
■遺構
石垣、水堀、移築櫓他
■指定文化財
市指定史跡
■ご城印
■場所
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■城巡り記録
2024年3月9日
西焼津駅から結構離れた場所にある田中城に行ってきました。
徒歩でもなんとかなるだろうと歩きましたが、なんとかなるもののそこそこ歩きます。
先に田中城下屋敷に行きます。
こちらで御城印を購入できます。
屋敷と庭園が整備されていて、良い散歩の場所となっているようでした。
本丸櫓が移築されていて、こちらには入ることも出来ます。
この辺は徳川家康が鷹狩をした場所のようで、ジオラマもありました。
また、田中城の模型は幾重にも水堀がきれいな円状に廃止されていて、堅牢なお城であったことを伺わせます。
歴史を学んだところで、田中城に行ってみます。
途中に平島一ノ門跡や三日月堀跡がありましたが、全く当時の面影がありません。
その先に土塁の一部が見えました。
これは遺構であると思われます。
本丸跡には小学校が建っていて入ることは出来ませんが、二の丸跡などに水堀が一部残されています。
先程のジオラマを思い浮かべながら当時の想像をしたいと思います。
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