■城名
小谷城
■所在地
滋賀県長浜市(旧東浅井郡湖北町伊部、かつての近江国浅井郡)
■称号
日本100名城、日本五大山城
■別名
■築城年
1516年(永正13年)
■廃城年
1575年(天正3年)
■築城者
浅井亮政
■主な改修者
浅井氏
■主な城主
浅井氏、羽柴秀吉
■天守
■天守構造
二層の天守が推定される
■城郭構造
梯郭式
■城分類
山城
■縄張り
小谷山一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用した南北に長い山城で、築城当時は現在の本丸跡よりさらに北に位置する大嶽城付近に本丸があったと考えられています。
久政、長政によって代々拡張が重ねられ現在の城郭になりました。
落城後長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまいましたが、山王丸付近に現存する大石垣をみる限り当時としては先進的で大規模な城であったと推察されます。
●主郭部
城は多くの郭によって構成されており、本丸とその奥に続く中丸との間には深さ5-10メートルほどの堀切があり主として南北2つの部分に分けることができます。
これらの郭を守る形で武家屋敷跡が点在し、清水谷などの要所には重臣の屋敷が配置されていました。
●御茶屋敷曲輪・御馬屋敷曲輪
御茶屋敷曲輪は番所跡の上にある曲輪で、主郭部の最先端にあります。
曲輪は一郭で中央に低い土塁があり、名称は「御茶屋敷」と伝承されていますが、歴とした軍事施設になっています。
御馬屋敷曲輪は本丸を防備するために築かれ、三方を高い土塁で囲まれています。
また御馬屋敷曲輪の清水谷の斜面側にはいくつかの竪堀が見受けられます。
またこの近くには馬洗池跡があり、南北9m×東西6.6mの石組みの池で中央に仕切りがあります。
また黒金門跡の手前に首据石があり、今井秀信を神照寺で殺害し首をここにさらしたとの伝承があります。
■歴史
1538年(天文7年)にも六角定頼が攻め込んだが、この時も浅井亮政は小谷城を退城し美濃国に逃亡しました。
亮政の孫長政は元亀・天正年間に朝倉義景とともに織田信長と戦ったことで知られています。
元亀元年(1570年)6月の小谷城から南に5キロほどの地点で繰り広げられた姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突し、織田軍が勝利したものの、信長は小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念、姉川南岸の横山城を築城、有力部将の木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を配置し、浅井氏に対する付城(前線基地)としました。
その後もしばらく小谷城から出る浅井軍と織田軍とで争いがありましたが、各拠点を守る磯野員昌(佐和山城)・宮部継潤(宮部城)ら浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、付城も横山城から、小谷城の南側の正面にある虎御前山へと前進しました。
しかし、一方で小谷城・丁野城・山本山城と小谷城から琵琶湖まで東西に並んだ支城は落城せず、小谷城の包囲へは持ち込めずにいました。
1573年(天正元年)8月8日、山本山城の守将である阿閉貞征が羽柴秀吉(7月ころに名字を木下から羽柴に改める)の調略に乗って織田方に寝返りました。
この城が手に入ったことで織田方は小谷城の包囲が可能になり、信長はその日の夜半に岐阜城を進発し、10日には越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功しました。
このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣しました。
この混乱の中で焼尾の砦を守る浅見対馬守が降伏しました。
焼尾は小谷城と峰続きである大嶽の砦の北麓にあるため、信長は小谷城攻略の意思をさらに固めました。
8月12日(グレゴリオ暦9月8日)、畿内一帯に嵐が襲来します(京都などでも被害の記録がある)。
この嵐を好機と見て信長はこの日自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功しました。
さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えました(刀根坂の戦い)。
信長は嫡男・織田信忠の手勢などを押さえに残して越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、8月26日には虎御前山に帰陣しました。
翌8月27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功しました。
その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害しました。
さらに本丸も落ち、9月1日、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡しました。
■見どころ
(遺構) 曲輪、堀切、土塁,石垣、縦堀、礎石、虎口
(指定文化財) 国の史跡
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
人気ブログランキング
お城巡りランキング
お城・史跡ランキング