「千早城」#大阪府

■城名
千早城

■所在地
大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早

■称号
日本100名城

■別名
楠木詰城、金剛山城、千早の詰め城、千早のかくれ城

■築城年
元弘2年/正慶元年(1332年)

■廃城年
明徳3年(1392年)

■築城者
楠木正成

■主な改修者
不明

■主な城主
楠木氏

■天守
なし(最高所に望楼櫓が建っていた可能性あり)

■天守構造

■城郭構造
連郭式

■城分類
山城

■縄張り
大和国五条と河内国大ケ塚・富田林を結ぶ最短ルートとして、昔から交通、軍事の要衝であった千早街道から登りつめた金剛山より西にある一支脈の先端に築かれた山城で、楠木氏の詰め城。
城は、周囲が約4kmで千早川の渓谷を利用し、北には北谷、南東には妙見谷、東は風呂谷があって、四方の殆どを深い谷に囲まれ、城の背後のみが金剛山の山頂に連絡する要害の地である。金剛山の山頂は標高1125m、城の最高所の標高は673m、比高は175mとなっています。

北条軍を引き受け、楠木正成が奇策を用いた攻城戦の舞台となりました。

■歴史
楠木正成は2つからなる城を持っており、下赤坂城が前衛の城、本城が上赤坂城とされます。
下赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、下赤坂城に1331年(元弘元年、元徳3年)10月21日夜、自ら火を放ち鎌倉幕府軍に奪わせました。
鎌倉幕府は下赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣しました。
1332年(元弘2年、正慶元年)4月、楠木正成は下赤坂城を奪い返し、鎌倉幕府方の湯浅宗藤を帰順させることに成功しました。

赤坂城の詰めの城として千早城をその背後の山上に築きました。
楠木正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、下赤坂城、上赤坂城、千早城の3城で鎌倉幕府軍と対峙し、上赤坂城には平野将監、楠木正季以下300兵を守備隊としました。
1333年(元弘3年、正慶2年)2月2日、まずは上赤坂城で戦いが始まり、善戦したが鎌倉幕府軍に水の手を切られ、平野将監が降伏の意を伝えた後も数日持ちこたえましたが、楠木正季が千早城に退却すると、同年2月27日に落城、千早城への出軍を命じました。
鎌倉幕府軍は千早城へ百万とされる軍を向け、これを攻撃。
籠城側・楠木軍は僅か千人足らずで守ったとあります。
「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」(『太平記』)とあり数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえます。
上赤坂城で勝利した鎌倉幕府軍は、ろくに陣も構えず、我先にと攻城しました。
千早城では櫓より大石を投げ落とし応戦し逃げ惑う兵に矢と飛礫が降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なりました。
鎌倉幕府軍は、上赤坂城の例にならい水源を断ち持久戦に切り替えましたが、城内には大木をくり抜き300もの木船が水もたたえており、食料も十分蓄えていました。
長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、楠木正成はわら人形を20-30体作らせ、甲冑を着せ弓や槍を持たせました。
その人形を夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵500を潜ませ、夜明けになると鬨の声をあげさせました。
鎌倉幕府軍は決死の攻撃と思いこみ攻め寄せた為、兵500は矢を放ちながら徐々に城内に引き上げました。
鎌倉幕府軍がわら人形に到達した所を見計らい、大石を投げ落とし、300名が即死、500名が負傷しました。
鎌倉幕府軍の持久戦に対して、同年3月4日に鎌倉より厳しい下知が届き、将士を督励することになりました。
そこで鎌倉幕府軍は近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上ろうとします。
京都より大工衆500余人を呼び集め、巾15尺(4.5m)、長さ100尺(300m)の橋を造り、大縄をつけて城内へ殺到した。楠木正成は、かねてより用意していた水鉄砲の中に油を入れ橋に注ぎ、それに松明を投げます。
城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると橋けたの中ほどより折れ、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと太平記に記載されています。
千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が3月23日(閏2月24日か?)に隠岐国の配所を脱出、討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた守護が相次いで帰国しました。
関東において挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなります。
鎌倉幕府が滅亡するのは100日戦争(千早城の戦い)が終了した12日後のことでした。

建武の新政以後、南朝方の楠木氏の居城となり城主は楠木正行、楠木正儀そして楠木正勝と続いていた。しかし、南北朝時代末年となる1392年(明徳3年)正月楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城し、61年に及ぶ歴史に幕を閉じました。

■見どころ
(遺構) 曲輪、空堀
(指定文化財) 国の史跡

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