「観音寺城」@15城目

2019年8月7日

■城名
観音寺城

■所在地
滋賀県近江八幡市安土町

■称号
日本100名城

■別名
佐々木城 鷦鷯城(さゝきのしろ)

■築城年
応仁・文明年間(1467年 – 1487年)

■廃城年
永禄11年(1568年)

■築城者
六角氏頼

■主な改修者
佐々木六角氏

■主な城主
佐々木六角氏

■天守
なし(屋形二階)

■天守構造

■城郭構造

■城分類
山城

■縄張り
近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠です。
標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれました。
南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配しました。
総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされます。
天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていました。
周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置します。

■歴史
古典『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられています。
観応の擾乱の最中の観応2年(1352年)9月には近江国にて足利直義の兵が南朝と連合して、足利尊氏方にあった佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らを破り、敗れた道誉らが当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城しています。
室町時代の応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められています。

六角氏は同族で東西に分かれ戦っていました。
応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開されました。

●第一次観音寺城の戦い
細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃しました。
城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出ました。
数日間攻防戦が続きましたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡しました。

●第二次観音寺城の戦い
応仁2年11月初め、陣代山内政綱が京都より帰国し観音寺城の防備を固め、弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えました。
同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城に攻撃を開始。
山内政綱は防戦したが守ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されています。

●第三次観音寺城の戦い
東軍の細川勝元は8代将軍足利義政を擁して官軍となりました。
この権威を利用して文明元年(1469年)5月、六角高頼の近江守護職を解任、代わりに京極持清を守護に任命しました。
守護に任命しただけではなく、持清に従わない者は知行地を没収する特権も持ちました。
これに激怒した高頼とその被官は焼失した観音寺城を修築、三度立てこもることになります。
これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせました。
高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になり、京極軍を撃退することに成功します。
その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚の親征を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けましたが、高頼は二度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回しています(長享・延徳の乱)。
戦国時代には大幅な城の改築が行われますが、六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになります。
永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城しました。

■見どころ
(遺構) 曲輪、土塁、石垣、竪堀、虎口、堀切、井戸
(指定文化財) 国の史跡

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観音寺城は標高433mの山城です。

安土城を見るついでに行きました。レンタサイクルで5分くらいで石階段の手前の入口まで到着です。

登り口は複数あるのですが、安土城から近い桑實寺を通るコースで行くことにしました。

石段が結構きついですよと言われましたが、大丈夫です。鍛えてますからと意気揚々と行ったのですが甘かったです。

安土城の石段を上り下りした後でしたが、結構余裕でした。風情がある石段で非常に気持ちよく散策出来たので同じ気分で行ったらびっくりです。

入口の桑實寺の案内板からずっと続く石段。

まっすぐ綺麗に続いているのでこれは期待が持てました。

しばらく行くとやっと門にたどり着きます。

もうお寺まで近いなと思って登って行ったのですが、ここからが結構あります。

石段自体は綺麗で良いのですが、長い。

安土城と同じ気分はさすがにまずかったです。3倍の標高があることを理解しておくべきでし

た。

そして何とか桑實寺に到着です。300円の拝観料を支払います。

ここを通らないと観音寺城にはいくことが出来ません。

100名城スタンプもこちらに置いてありました。私は駅前の安土城郭資料館で押してしまったのでここはスルーです。

お寺の右手から登ってくださいというので行ってみるとまた結構な石段です。

しかも少し行くと急に狭くなり、いつの間にか山道っぽくなりました。

石段にはなっていますが、これまでの整備されたものとは違い山道の石段です。

そしてこの道、誰もいません。一人で来たことを少し後悔しました。

蜘蛛の巣が結構多くて、さらにトカゲが多数います。

あとどれくらい登らなければいけないのか不安になりつつ黙々と上りました。

すると石垣が見えて観音寺城の案内板がありました。

ここまできて初めて観音寺城だと気づく感じです。

しかしこの山頂には石垣と看板くらいしかありません。なかなか不安になります。

山頂に観音寺があったことから観音寺城というらしいですが、改修の際に中腹に移され観音正寺となったそうです。

中腹といっても結構上の方で、山頂から5分ほど下ったら着きました。

非常に景色が良く、南側を一望できます。

こちらには観光客の人がたくさん来ていました。

ただし、だれも観音寺城の道の方には来ません。

このお寺までは車で登ってこれるようです。

こちらが大手道となるので、下りはこちらから降りてみようかとも思ったのですが、自転車を搦め手となる桑實寺の方に止めてあり、逆に降りると相当遠回りとなってしまうため、来た道を戻ることにしました。

帰りは道が分かっているので不安もなく戻ることが出来ました。

この山城は攻めたくないですね。

安土城のような見どころもなく、七尾城のような整備がされているわけでもなく、何となく本当に100名城なのという感じなのですが、中世のお城ということもあり、じわじわとその良さがくる感じです。

いや、まだ十分に分かっていませんけど。

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