「一乗谷城」@13城目

2019年8月6日

■城名
一乗谷城

■所在地
福井県福井市城戸ノ内町

■称号
日本100名城

■別名
一乗谷朝倉氏遺跡

■築城年
南北朝時代

■廃城年
1575年(天正3年)

■築城者
朝倉氏

■主な改修者
桂田長俊

■主な城主
朝倉氏、桂田長俊

■天守
なし

■天守構造

■城郭構造

■城分類
山城

■縄張り
福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなります。
現在の福井市街の東南方向約10キロメートル離れた、九頭竜川支流の足羽川の、さらに支流である一乗谷川沿いの谷あいにあり、戦国時代の城下町と館跡、および背後の山城から構成されます。
一乗谷は東西約500メートル、南北約3キロメートルと狭小ですが、福井平野の端から山地に入ってすぐの場所に位置し、数キロメートル先の目前に北陸道や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道、北陸道と連絡した朝倉街道などが通る、交通の要衝をすぐ押さえられる位置でした。
一乗谷は東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していました。
周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群でした。

歴史 “文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花しました。
このため北ノ京とも呼ばれ、戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えました。
1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪し、1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義昭(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎えます。
義景は義昭を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国します。
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れます。
翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰しました。
この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していました。
しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策、1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆勢が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られました(越前一向一揆)。
信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていきました。
優れた造りの庭園も堆積する土砂に埋もれましたが、1967年(昭和42年)に発掘が開始され注目されるようになりました。

■見どころ
(遺構)土塁、堀、虎口、石垣、礎石
(指定文化財)遺跡(特別史跡)、庭園
(特別名勝)、遺跡出土品(重要文化財)

一乗谷城
朝倉氏によって当主館の東側背後、西方に福井平野を一望できる標高473メートルの一乗城山に築城された中世山城で、15世紀前半には築かれていたと考えられます。
一度も戦闘に使用されることなく廃城となりました。
現在でも、曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っています。
全長1.5キロメートル、幅200メートルの曲輪を配し、主郭部分はおよそ600メートル×200メートルあります。
本丸(千畳敷)は標高416メートルに位置し、東南へ尾根伝いに一の丸(443メートル)、二の丸(463メートル)、三の丸(473メートル)となり、各曲輪は堀切によって区切られています(連郭式城郭)。

元亀年間には織田信長の侵攻に備えて約140条の畝状竪堀を築くなどの改修が行われたようです。

千畳敷(本丸)
千畳敷は本丸跡と伝えられる場所で、山城のうち最も広い部分です。
主郭群の中では最も新しく、義景の代に山腹を削平して造営され。北側には竪堀群が存在している。枡形虎口を設けた観音屋敷跡や福井平野を一望できる宿直(物見台)跡、赤淵明神跡や月見櫓跡などがあり、堀切、土塁で区切られています。
西側には飲料水として利用された不動清水という湧水地があり、ここは文化的施設として使用されていたとも考えられています。
本来の一乗谷城は以下の一の丸・二の丸・三の丸で存在していました。
一の丸
山頂(標高443メートル)を削って造られており、西側には空堀を配しています。
二の丸
四方を大きな堀切で完全に防御しています。
三の丸
最高所の一部で、竪堀群や堀切などが複雑に配されていて、北西の低い場所には小見放城という出城が築かれ、馬出しなどが設けられています。
なお、一乗谷の周辺の山峰にも、東に東郷槙山城、北に成願寺城、南に三峰城などの出城が築かれていました。

唐門
朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門(向唐門)。
朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わます。
門表には朝倉家の三ッ木瓜の紋が刻まれていて、現存するものは江戸時代中期頃に再建されたものです。

朝倉館跡
一乗谷の中心部に位置する朝倉家当主が居住した館である。東側後背に山城があり、西、南、北の三方を高さ1.2メートルないし3メートルほどの土塁で、その外側を幅約8メートル、深さ約3メートルの堀で囲んでいます。
三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門があり、西方にある門が正門(御門)で、現在は唐門が建てられています。
平坦部の面積は約6,400平方メートルあり、内部には17棟の建築物がありました。
館内最大の常御殿(東西約21.4メートル、南北約14.2メートル)を中心に、南側には主殿や会所・数寄屋・庭園・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や持仏堂・湯殿・蔵・厩など日常生活のための施設群が存在しました。
建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられており、屋根はこけら板等を葺いていたと考えられていますが、鬼瓦や棟石等も発掘されています。舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かったとされています。”
見どころ2 “花壇跡
1968年(昭和43年)に常御殿の南側中庭で花壇の遺構が発見されました。
東西9.8メートル、南北2.8メートルの長方形をなし、花粉分析等により、春にはシャクナゲやボタンなどが、秋にはキクやハギなどが植えられていたことが判明しました。
花壇としては現在のところ、日本最古の遺構です。

朝倉義景墓
館跡の東南の隅にあり、1576年(天正4年)に村民が建てた小祠の場所に、1663年(寛文3年)、福井藩主松平光通が墓塔を建立しました。なお、大野市にも江戸時代に建てられた義景の墓があります。
中の御殿跡
義景館跡の南隣にあり、空堀を隔てて湯殿跡庭園とほぼ同じ高さの場所にあります。
足利義秋から従二位に叙せられた朝倉義景の母である光徳院が居住したと伝えられている御殿跡。
東と南を土塁で囲んでいます。
1972年(昭和47年)以降の発掘調査により、門や庭園跡、建物跡の一部が検出されました。
館の背後には朝倉一族の屋敷が建ち並び、館の西方には犬馬場、柳馬場などの外郭が存在しました。

庭園
庭池と石組の豪壮な林泉庭園から砂礫と立石、伏石の枯淡な枯山水庭園まで多くの庭園が遺存しています。
後世の改変がなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えています。湯殿跡庭園以外は石組の形式などが類似しているため朝倉義景時代の作庭と考えられています。
湯殿跡、南陽寺、諏訪館跡の3庭園は以前より庭石が地上に出ており1930年(昭和5年)7月8日には国の名勝に指定されていましたが、その後の管理が不十分であったため荒廃していました。
そのため、1967年(昭和42年)、表土の除去や雑木の伐採などの整備が行われ、1987年(昭和62年)には湯殿跡、諏訪館跡で湧水用の石組溝や暗渠が発掘されました。
●湯殿跡庭園
1991年(平成3年)5月28日、以下の4庭園が国の特別名勝に指定されました。
海抜63メートルの高台にあり、朝倉館跡を見下ろす位置にあります。
「観音山」という小山を背景に苔むした庭石が林立していて、戦国気風がただよう荒々しくて勇壮な石組であることから、4つの庭園の中で最も古いものだと考えられています。
16世紀初頭、10代目当主、朝倉孝景の時代に造られたと推定され、南北に細長く複雑に入り組んだ形の庭池があり、当時は導水路が備えられ、水がたたえられていたと考えられています。
凝灰角礫岩の巨石を用いて護岸石組や滝石組、三尊石組などが周囲に組まれていて、左右ほぼ同じ高さの滝副石があり、1段の水落石と水分石があります。
園路跡もあり、池尻付近には橋挟石相当の石があることから石橋が架けられていたと考えられます。また、南側には空堀の石垣が残っており、池の東端には「亀島」と呼ばれる小さな石組で出来た島があります。
その反対側の西端には、「鶴石組」という石組が造られています。
湯殿跡庭園の池に見られる「亀島」と呼ばれる造りの石組は、滋賀県にある「旧秀隣寺庭園」にも存在し、湯殿跡庭園と構造が類似したところがあり、ほぼ同時代に造られたものと考えられています。
●南陽寺跡庭園
南陽寺は朝倉氏景の妻、天心清祐大姉が建立し、その後、戦国3代朝倉貞景が再興した寺です。
朝倉館の北東の高台にあり、朝倉代々の女性が尼として居住していて、当時は多くの建物がありましたが、現在は山すそに庭園の一部が残るのみです。
1568年(永禄11年)3月の桜の季節には、この庭園で朝倉義景が足利義秋(のちの15代将軍義昭)を招いて宴、歌会を催しました。現在、その時に二人が詠んだ歌の碑が建てられています。
「もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はゞ」義秋
「君が代の時にあひあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉」義景
●諏訪館跡庭園
諏訪館は朝倉義景が4人目の側室である小少将のために造ったと伝えられる館です。
近くにある資料館には諏訪館の屋根板の重しや、魔除けの鬼瓦が展示されています。
上下二段構成の回遊式庭園で、上段は滝石組と湧泉石組、下段は大きなヤマモミジの下に高さ4.13メートル、幅2.5メートルの日本最大の滝副石を使った豪壮な滝石組があります。
落差が大きいため水落石は4段組みで、水分石が滝口の前方にあり、立派な石橋が池尻に架けられています。
礼拝石、橋挟石なども型通りに配置されており、当時の庭園様式をよく伝えています。
大変形式的な構成であるため、専門庭師の作庭であると推察され、4つの庭園の中で最も規模が大きく、回遊式林泉庭園としては日本でも第一級の豪華さを誇るといわれます。
1847年(弘化4年)、滝副石の表面に心月寺十八世月泉和尚の筆により教景、貞景、孝景の法号を刻み供養しています。
●朝倉館(義景館)跡庭園
館跡内の南方にある庭園。完全に埋没していたが1968年(昭和43年)に発掘されました。
護岸石を館の礎石に兼用し、庭園を囲むように接客用の館が建てられていたと考えられます。庭池は数寄屋跡南の山すそにあり、滝口前方には水分石があり、滝石組が中央に配され、付近には橋挟石と石橋の残片が遺存しています。
池には大きくて平らな川石が敷きつめられていて、東側の急斜面には導水路があり、庭池へつづら折れに流れ落ちるようになっています。
数寄屋跡西には小砂利を化粧敷きにして庭石を数個配置した枯山水があります。
ちなみに、この庭園の庭石の一部には海石である安島石(普通輝石紫蘇輝石安山岩)や青石(緑色片岩)が使われています。

みどころ3 “城下町

復原町並
南北を城戸に囲まれた約1.7キロメートルの谷間に形成されていました。
100尺(約30m)を基準に計画的に町割がなされた町並みは京都のように整然としていたようで、1995年(平成7年)には発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元され、復原町並として公開されています。原寸大の立体模型は日本初。

侍屋敷跡
朝倉館から一乗谷川を隔てた場所には周囲に土塁をめぐらした大屋敷が立ち並んでいました。
現在は、復原町並として復元整備されている場所で、それらのうち一軒を史料等を参考に、30坪の主殿を中心に門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠まですべてが再現されています。

町屋
小規模な建物が細く並んでいました。
平面復原地区、城戸の近くもびっしりと町屋が並んでおり、人口密度が相当高かったとされています。
現在、復原町並内に10軒の町屋が復元され、裏庭、井戸、厠なども再現されています。

寺院
一乗谷には約40の寺院があったと考えられています。

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福井県に来たので一乗谷城に行ってきました。

朝倉氏の居城です。正式名称は「一乗谷朝倉氏遺跡」らしいです。

正式名称というよりも観光地化されているところが朝倉氏の館や城下町の方で、実際のお城はその後ろにある山の上にあります。

標高473mとかなり高いところにあるお城ですが実際にこの城で戦は行われず、織田信長が一乗谷に攻め入った時はすでに朝倉義景は大野に逃れていたそうです。

一乗谷に行ったのですが、実際私は山城に登っていません。

朝倉館跡と城下町の跡を見て満足してしまいました。

城下町はしっかりと当時の町並みが復元されており、非常によかったです。

武家屋敷跡や商人の家などあり、門構えや囲炉裏、井戸、便所などもしっかり再現されています。

井戸は家の中にあったり、便所は外だったりするので、子供たちには勉強になったかもしれません。

朝倉氏の館は城下町と小川を挟んであり、正面に唐門がありますが立派です。

鯉の餌が売っており、子供たちが楽しそうに餌をあげていました。1袋100円ですけど。

館は復元されておらず、基礎部分が発掘されているので、雰囲気でイメージするしかないです。

ここには朝倉義景の墓も置かれいます。

そして、館から階段を上った丘の上には庭園があり、こちらは今でも見ごたえのあるものとなっています。

湯殿跡庭園は温泉が当時出ていたのではという名前ですが、そんなことはなく荒い岩が並んでいるだけだが見ごたえはありました。

導水路跡もあるため、当時は水が流れていたかもしれません。

そこから少し離れたところに諏訪館跡庭園があります。

こちらも非常に見事な庭園であると思われます。

私には語れるほど知識が無いのですが、景色の良い場所に豪華な庭園を造り、朝倉氏の栄華が分かる遺跡だと思いました。

この遺跡から少し車道を道なりに上がったところに一乗滝という立派な滝があります。

観光名所らしく夏の暑い時期だったこともあり、結構人がいました。

せっかくなのでこの滝も当時朝倉家の人が見たのではないかと思いながら楽しみました。

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