「二条城」@11城目 #京都府

2019年8月3日

■城名
二条城

■所在地
京都市中京区二条通堀川西入二条城町(かつての山城国葛野郡)

■称号
日本100名城、世界遺産、現存4御殿、日本三大平城

■別名
旧二条離宮、恩賜元離宮二条城

■築城年
1603年(慶長8年)

■廃城年
1873年(明治6年)

■築城者
徳川家康

■主な改修者

■主な城主
徳川氏(江戸期)、皇室(明治17年ー昭和14年)

■天守

■天守構造
複合式望楼型5重5階(1603年移築)
複合式層塔型5重5階(1628年移築)(非現存)

■城郭構造
輪郭式

■城分類
平城

■縄張り
城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されています。
さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。
歴史 “永禄8年(1565年)、戦国乱世のただなかにあって義輝は幕府の重鎮であった斯波氏の屋敷跡に自らの城を築いた。
義輝の弟・義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていましたが、翌12年(1569年)1月、三好三人衆による襲撃を受けました(本圀寺の変)。
この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功しますが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めました。
場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅としました。

信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられました。
建物の多くは本圀寺から移築され、さらには屏風や絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれ、細川氏一族で分家・細川典厩家の細川藤賢邸から、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入されました。
築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭はここに本拠を移しました。
この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われました。
山科言経は「石くら」に驚嘆しました。
石くらとは石垣のことで、この城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示しています。
周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられています。

当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていました。
なお元亀3年(1572年)3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工しています(未完成)。
建築物を奪われることに困った本圀寺の僧侶らは松永久秀に、信長への移築中止の取り成しを頼んだが無理だと断られました。
また1500人の法華信徒らが莫大な品を信長に献上し、さらに望み通りの金銭の提供も申し出て免除を請い、将軍や朝廷にも働きかけたが、信長は取り合わなかったといわれいます。
ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵します。
信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲しますが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立します。
しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵します(槇島城の戦い)。
この時、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれましたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏しました。
この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられています。

この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになります。
二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用されました。

信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊しましたが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入りました。
二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸でした。
前住者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して(『言経卿記』)空き家となっていたので、信長が上洛した時の宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて、「二条殿御構へ」の普請を京都所司代の村井貞勝に命じました。

翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」(「武家御城」とも)に自ら居住し、京の宿所(本邸)として使用する。天正7年(1579年)には、この屋敷を皇太子誠仁親王に献上。同年11月22日に、誠仁親王とその皇子である五の宮(後の邦慶親王)がこの「二条新御所」に移徙しました。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていました。
しかし、そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言しました。
信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する明智光秀勢と奮戦しますが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰しました。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)も二条に城を構えています。
秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していましたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されています。

慶長6年(1601年)5月:関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。
慶長7年(1602年)5月:御殿・天守の造営に着工。
慶長8年(1603年)3月:落成。但し、天守は慶長11年(1606年)に完成。
慶長8年(1603年)2月12日:家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の慶長10年(1605年)に家康の息子の2代将軍秀忠が、元和9年(1623年)に孫の3代将軍家光が踏襲するが、曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなった。
慶長16年(1611年):二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われる。この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚き徳川氏の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したともいわれている。
慶長19年(1614年):大坂冬の陣が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。
元和元年(1615年):大坂夏の陣においては二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣木村宗喜が捕縛された。このため織部は切腹、家財没収となる事件もあった。
元和5年(1619年):秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。この時の縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(秀忠は2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった)。
元和6年(1620年)6月18日:徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。
寛永元年(1624年):徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、天守も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築した。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した。
寛永3年(1626年):行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。
寛永11年(1634年)7月:秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。

その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。
寛永2年(1625年):二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。

元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。
文久2年(1862年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。

庭園側から見た二の丸御殿(左から大広間、式台、遠侍)万延元年(1860年):京都地震が発生し、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受けた[7]。
文久2年(1862年):14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。
文久3年(1863年)3月:家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする。
慶応元年(1865年):家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。しかしここで病に倒れ、翌慶応2年(1866年)夏に死去する。
慶応2年(1866年):幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける。

慶応3年(1867年)9月:慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。この時二条城には旗本を中心とする徳川氏直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。

■見どころ
(遺構)御殿・櫓・門・番所・土蔵、石垣・堀・庭園
(指定文化財)国宝(二の丸御殿6棟)
(国の重要文化財)建造物22棟、二の丸御殿障壁画1016面
(国史跡)特別名勝(二の丸庭園)
(世界遺産)古都京都の文化財

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真夏の京都は暑いです。

それもお昼時の一番暑い時間帯に二条城に行ってきました。

京都から嵯峨野線で二条まで行き歩いたのですが、結構距離がありました。

暑くなければ大した距離でもないのですが、暑いとかなりしんどいです。

西南隅櫓が見えたときはホッとしました。お堀も綺麗でさすが二条城という感じがします。

しかし、そこから大手門までかなり距離があります。やはり素直に二条城前駅からいった方が良かったです。

京都駅からは遠回りなんですけどね。

大手門に行く前の南側に橋が架かっていない南門があります。

やっと東南隅櫓が見えてきました。

入り口の東大手門までもうすぐです。

東大手門に到着。

入場券を購入します。

大人1000円。まぁ妥当な値段でしょう。

立派な大手門をくぐり、左に行くと豪華な二の丸御殿唐門があります。

二条城は戦用ではなく威厳を示すためのお城なので、豪華です。


細かい細工をスケッチしている外国人がいました。

こういった美を楽しむのは最近は日本人より外国人の方が多いのかもしれません。

唐門をくぐり抜けると大きな二の丸御殿が見えます。

現存する御殿は4つで、二の丸御殿として残っているのはこの二条城と掛川城しかありません。

その中でも二条城の二の丸御殿は別格の大きさを誇り、大政奉還が行われた場所でもあります。

二条城が徳川家康が征夷大将軍に任命され、慶喜が大政奉還するという江戸時代の開始と終了を行った歴史的な場所であり、非常に感慨深いものがあります。

二の丸御殿は写真撮影不可のため写真はありませんが、当時の将軍と家臣の配置とか思い描けて非常に楽しいです。

二の丸御殿の後は庭園を見ます。こちらも立派です。

そして、天守台に登り景色を楽しみました。


当時はここから何が見えていたのでしょうか。

本丸から出るところの西橋手前の石垣も立派です。

西橋からお堀を撮りました。

そしてこちらが西橋です。

向こうに天守台も見えて非常に良い作りです。

二条城は見どころが多いお城でした。さすが世界遺産といった感じですね。

100名城スタンプは出口手前の大休憩所の中に置かれています。

大休憩所では金箔のソフトクリームを食べようと思ったのですが、あまりにも値段が高いのでやめました。

1200円はちょっとやりすぎです。

その代わりに抹茶ビールなるものを頼みました。

こちらも量が少ない割には高いです。

240ml700円。

でもなんとなくビールだと気にならないのはなぜでしょうか。

抹茶の味はかすかにするくらいですが、美味しく頂きました。

今度は春か秋に来たいと思います。

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