
■城名
衣笠城(きぬがさじょう)
■別名
-
■所在地
神奈川県横須賀市衣笠町
■見ごたえ
★★★
■築城年
康平年間(1058〜1065)
■築城者
三浦為通
■主な城主
三浦氏
■城分類
山城
■遺構
曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸
■指定文化財
市史跡(衣笠城跡)
■歴史(ChatGPTより)
衣笠城は、三浦半島に勢力を築いた三浦氏の本拠として知られる城であり、その起源は平安時代後期にまでさかのぼる。前九年の役(1051~1062年)において戦功を挙げた 源頼義 から、相模国三浦の地を与えられた 三浦為通 が、康平5年(1062年)に衣笠山山麓へ居館を構えたのがその始まりとされる。これが後の衣笠城へと発展し、三浦氏の勢力拡大とともに次第に整備・拡張されていった。
治承4年(1180年)、源頼朝 が平家打倒を掲げて挙兵すると、三浦氏の当主 三浦義澄 はこれに呼応する。しかし、頼朝は 石橋山の戦い で敗北し、三浦勢は頼朝軍と合流できないまま引き返すこととなった。その途中、平家方の 畠山重忠 軍と激突し、衣笠城を舞台に戦いが繰り広げられる(衣笠城合戦)。この戦いで城は落城し、三浦氏の重鎮である 三浦義明 は討ち死にした。三浦一族は一時的に安房国へと退却するが、その後頼朝が勢力を回復し鎌倉幕府を開くと、再び衣笠を本拠として復権を果たす。
しかし、鎌倉時代中期の宝治元年(1247年)、宝治合戦 において三浦氏は北条氏に敗れ、ここに三浦党は没落する。これにより衣笠城もまた、その役割を終えて廃城となった。
現在の衣笠城跡は、衣笠山公園 として整備されているが、当時をしのばせる遺構は井戸跡や堀跡などわずかに残るのみである。ただし周辺には、義明の墓所がある 満昌寺 や、三浦氏ゆかりの寺院が点在し、往時の歴史を今に伝えている。また、平作川流域には平作城・大矢部城・小矢部城・佐原城・怒田城など、衣笠城を中心とした支城群の痕跡が広がっており、三浦氏の広域的な支配体制をうかがうことができる。
さらに近年の研究では、「衣笠城」という言葉の意味そのものについても再検討がなされている。中世前期における「城」とは、単なる軍事施設としての山城ではなく、武家の居館や一族の墓地、寺社などを含む広い生活・支配空間を指す概念であったとされる。この見解によれば、衣笠城とは現在の山頂部の城郭遺構に限定されるものではなく、満昌寺や薬王寺、さらにはやぐら群が点在する谷戸一帯を含む、三浦氏の本拠地全体を示す呼称であった可能性が高い。
このように衣笠城は、単なる一城郭ではなく、三浦氏の政治・軍事・宗教活動が一体となった中世武家社会の拠点そのものであり、その実態は広域的かつ複合的な「城」であったと理解されている。現在の静かな公園や寺院の風景の背後には、三浦氏の興隆と没落、そして鎌倉武士の世界を象徴する歴史が刻まれているのである。
■場所
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■城巡り記録
2026年3月20日

