「高岡城」#富山

■城名
高岡城

■所在地
富山県高岡市古城(旧越中国射水郡関野)

■称号
日本100名城、日本さくら名所100選、日本の都市公園100選、日本の歴史公園100選

■別名

■築城年
1609年(慶長14年)

■廃城年
1615年(元和元年)

■築城者
前田利長

■主な改修者
不明

■主な城主
前田利長

■天守
不明

■天守構造

■城郭構造
梯郭式

■城分類
平城

■縄張り
郭は、本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶丸の五つからなるが、現在では「御城外」とされている小竹藪や梅林(当時の郭名は不明)も、これに加えるものと考えられています(本丸以外を馬出とする見方もあります)。
水濠は本丸西側のみが一重で他面は二重ですが、これは現在は市街地化しているものの、かつては本丸の北から北西にかけてが沼沢地であり、それを背面の護りとして本丸を他の郭でコの字型に囲む形の縄張りであったためです。
基本的なプランは利長の先の居城であった富山城との類似性が見られ、その発展型とみることができます。
今なお築城当時の濠塁をほぼそのまま残しており、総面積の約21万m2(71,261坪)の内、約3割(24,400坪)が人工の堀です。
本城の縄張りは高山右近によるものとするのが従来の通説ですが、近年、富山城とともに聚楽第型に分類し、右近が手がけた高槻城、船上城などの縄張り手法との比較から、それを疑問視する説も提示されています

■歴史
1605年(慶長10年)6月28日、富山城に隠居した初代加賀藩主・前田利長は4年後の1609年(慶長14年)、富山城下の町人地から出火した火災の類焼により城内の建築物の大半を焼失したため、利長は魚津城に移り、大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の報告と、関野に築城の許可を貰います。
利長は築城の方針に伴うため、資材調達を小塚秀正ら、現地奉行を神尾之直らに命じ、魚津城から築城の指揮を取り、同時に城下町の造成も始めました。
縄張(設計)は当時の前田家の客将だった高山右近とされています
殿閣は先代利家が豊臣秀吉から賜った豊臣秀次失脚に伴い破却された伏見城秀次邸の良材を使って建てられたとも伝えられます。
しかし、1614年(慶長19年)5月20日に利長は死去(享年53)し、隠居城として使われたのはごく短期間でした。
その翌年の1615年(元和元年)には一国一城令により、大坂夏の陣からの利常凱旋を待って高岡城は廃城となりました(その代わり加賀国に小松城を築くことがゆるされました)。
しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持されます。これは加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様でした。
街道の付け替えの際には、濠塁がそのまま残る城址を街道から見透かされるのを避けるため町屋(定塚町)を移転して目隠しにしたといわれています。
また、廃城後に利長の菩提を弔うために建立された瑞龍寺や周囲に堀を備える利長の墓所自体も高岡城の南方の防御拠点としての機能を併せ持つものとして配置されたと考えられています。なお、江戸時代の古図の中には城址を「古御城」の名称で記しているものがあります。

■見どころ
(遺構)堀、石垣

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