■城名
盛岡城
■所在地
岩手県盛岡市(陸奥国岩手郡)
■称号
日本100名城
■別名
不来方城
■築城年
1598年
■築城者
南部信直
■主な改修者
南部重直
■主な城主
南部氏
■天守
–
■天守構造
御三階櫓(1842年以降は天守)
不明3重(1633年築)
独立式層塔型3重3階(1676年再 非現存)”
■城郭構造
連郭式
■城分類
平山城
■縄張り
西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城
本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、存城当時は廊下橋(屋根付橋の一種)が架けられていた。
さらにその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配された。本丸には天守台が築かれたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされた。
後、1842年(天保13年)に12代利済により天守へと改称されている。
■歴史
1590年(天正18年) – 陸奥国北部を勢力下に置く南部氏は、安土桃山時代に天下統一を果たした豊臣秀吉より、当主の南部信直が5ヶ郡(閉伊郡、岩手郡、鹿角郡、紫波郡、ならび糠部郡[3])の所領を安堵された。
1591年(天正19年) – 九戸政実を倒し、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に本拠を移した。失領していた津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増されて、7ヶ郡10万石の所領を安堵された。
1592年(文禄元年) – 蒲生氏郷や浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け、不来方の地を本拠とすべく整地を開始。
1598年(慶長3年) – 京都にあった信直は嫡男の利直に築城を命じ、兵学者の内堀伊豆を普請奉行として築城に着手した。
1599年(慶長4年) – 信直が病没。
1600年(慶長5年) – 関ヶ原の戦いで利直は東軍に属したため徳川家康より所領を安堵された。
慶長年間(-1615年)には総石垣の城としてほぼ完成、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。
■見どころ
(遺構)石垣、土塁、堀、移築土蔵・門
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