「会津若松城」

■城名
会津若松城

■称号
日本100名城

■別名
鶴ヶ城、若松城、黒川城

■築城年
1384年

■築城者
蘆名直盛

■主な改修者
蒲生氏郷、加藤明成

■主な城主
黒川城:蘆名氏、伊達政宗
若松城:蒲生氏、上杉景勝、加藤氏、保科氏・会津松平家”

■天守
外観復興天守

■天守構造
望楼型7重不明(1593年(文禄2年)築)
層塔型5重5階地下2階(1611年(慶長16年)改)
層塔型5重5階(RC造 1965年(昭和40年)外観復興) ”

■城郭構造
梯郭式

■城分類
平山城

■縄張り
城域が位置する台地の西端に主郭。内濠を隔てて東側に二ノ丸、三ノ丸と続き、台地下の北側に北出丸、西側に西出丸がある。
三ノ丸以外の各門は枡形石垣門になっていた。
主郭は、天守とそこから南と東に伸びる走長屋(多聞櫓)により区分けされており、南東側の御殿等を配置した区域が本丸、その北から西側をL字に取り囲む区域が帯郭となっている。
主郭の虎口は全て帯郭に接続しており、天守の下にある鉄門を経て本丸に至る。
現在の縄張は、主郭の東、北、西の三方の虎口(桝形)の外側を馬出で防御し、その馬出の虎口も桝形とする防御プランであり、郭の構成はシンプルだが相当に厳重な縄張りとなっている。

■歴史
1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。
1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。
しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。
氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。

1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。

1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。
越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。

翌1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。
代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。

1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。

1868年(慶応4年)、戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争にて、会津勢の立て篭もる若松城は新政府軍に包囲され砲撃を受けた。
1か月の間持ちこたえたが、降伏し開城した。

■見どころ
(遺構)石垣、土塁、堀
(再建)天守・門・櫓・長屋

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