2019年8月10日
■城名
箕輪城
■称号
日本100名城
■別名
–
■築城年
1512年(永正9年)
■築城者
長野業尚
■主な改修者
武田氏、北条氏、井伊氏
■主な城主
長野業正、内藤昌月、滝川一益、北条氏邦、井伊直政
■天守
なし
■天守構造
なし
■城郭構造
梯郭式
■城分類
平山城
■縄張り
群馬県高崎市箕郷町にあった日本の城
榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城
城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた
城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なもの
■歴史
永正9年(1512年)戦国時代中期、当地を支配する長野氏の長野業尚によって築かれた
大永6年(1526年)業尚の子の信業によって築かれたという説もある。信業の代には、守護代であり山内家宰の白井・総社長尾氏を凌駕する勢力を持っていた。
信業の子長野業正は、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、名君と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至った。
正の代にはまた、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。
永禄4年(1561年)11月、長野業正が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の長野業盛が家督を継いだ。長野業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と伝え、その死は永らく秘匿された。
永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し長野業盛は自刃して果てた。
武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられる。元亀元年(1570年)頃には内藤昌豊(昌秀)が城代となり、天正3年(1575年) 長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられた。
天正10年(1582年)2月の天目山の戦いで武田氏は滅亡すると、織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を拝領し箕輪城を接収、次いで厩橋城に入った。内藤昌月は近隣の領主と共にこれに従っている。
同年6月2日、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏政とその子北条氏直の大軍が上野国に侵攻した。同年6月18日、19日、北条氏が神流川の戦いで一益を破ると、内藤昌月はこれに降り、北条氏政の弟・氏邦が箕輪城に入城した。
天正18年(1590年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。
徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。
直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、慶長3年(1598年)高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となり、80余年の歴史に終止符を打った。
■見どころ
石垣、土塁、空堀、馬出し、井戸、復元門
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
高崎駅からかなり離れた場所にある平山城です。
高崎駅を降りてバスに乗り30分。結構あります。
箕輪城とは別の高崎市箕郷支所にスタンプが置いてあるので、先にそちらに行きました。
休日は休みですが、裏口にスタンプは置いてありますと親切に明記されています。
裏にまわると守衛の方が丁寧に対応して頂き、箕輪城の各種資料をくれた上にお城までの道を教えてくれました。
素晴らしい対応です。
そこから歩いて10分くらい。
小学校と校庭間に道があって、そこを通った先に法峰寺があるのですが、その少し手前を左に入ると観音堂があります。
その観音堂の裏にひっそりとした道があり、そこから入ります。
蜘蛛の巣が張っていて、ここは通れるのか心配になりましたが、少し行くと開けていて安心しました。
整備された山道を少し歩くと急に開けた場所に出ます。
復元された郭馬出西小口門が存在感を出していました。
その手前は非常に大きな堀切となっており、これは攻めづらいです。
武田信玄が何度攻めても落とせなかった難攻不落のお城です。
まぁ最後は兵力で圧倒して落城させたのですが、相当な被害が出ました。
小口門をくぐり土橋を渡ると二の丸になります。
土橋の周りも大堀切。
水の張っていない堀が本当に役に立ったのか疑問でしたが、これなら十分役に立ちます。
当時はもっともっと深かったそうで、登っているときに狙い撃ちにあいそうです。
二の丸には親切に100名城スタンプはここにないことを表示していました。
その先が本丸です。
本丸は結構広いです。
箕輪城跡の石碑がしっかり鎮座していました。
本丸の裏には御前曲輪があります。
本丸の詰めの場所らしいです。
そこから堀切に降りてぐるっと周ってみました。
草がうっそうと茂っていて一人歩ける程度の道を歩きます。
それにしても誰もいない。
真夏のお昼に来る人はいないかもしれませんね。
大堀切はすごかったものの感動レベルは同じ群馬でも金山城の方が上かもしれません。
それでも十分見所の多いお城だったと思います。