「小田原城」@10城目

2019年7月21日

■城名
小田原城

■称号
日本100名城

■別名
小峯城(小峰城)、小早川城(小早川館)

■築城年
応永24年(1417年)

■築城者
大森頼春

■主な改修者
杉村氏、北条氏綱、氏政、氏直、大久保忠世、稲葉正勝

■主な城主
後北条氏、阿部氏、稲葉氏

■天守

■天守構造
複合式層塔型3重4階(1633年 築)

■城郭構造

■城分類
平山城

■縄張り
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていました。
3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えました。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。
八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいました。
慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させています。

■歴史
応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げました。
明応4年(1495年)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張しました。
ただし、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初であったとされ、その時期は氏綱が家督を継いだ永正15年(1518年)もしくは盛時が死去した翌永正16年(1519年)の後とみられています。
以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となりました。
永禄4年(1561年)、北関東において後北条氏と敵対する上杉謙信が越後から侵攻し、小田原城の戦いとなります。
永禄11年(1568年)甲斐国の武田信玄は駿河今川領国への侵攻を開始し(駿河侵攻)、後北条氏は甲相同盟を破棄し越後上杉氏との越相同盟を結び武田方に対抗しました。
信玄はこれに対して北関東の国衆と同盟し後北条領国へ圧力を加え、翌永禄12年10月1日から4日(1569年11月9日から12日)にかけて後北条領国へ侵攻し、小田原城を包囲する軍事的示威活動を行い、撤退に際して追尾した後北条勢を三増峠の戦いにおいて撃退しました。
天正18年(1590年)豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃しました。
戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いていました。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

久しぶりに小田原城に行ってきました。

行くのは10年振りかもしれません。

花見の名所として桜を見に来たのですが、お城を見に来たのは初めてです。

小田原城はさすが北条氏の居城です。作りも総構で現存している場所だけでも広いです。

このお城からこれまで行った八王子城や鉢形城まで支配していたとはすごいです。

小田原城の中でも名所となる復元された銅門(あかがねもん)が内部を特別公開していました。

門の上の櫓は結構な広さがあります。

小田原北条攻めの際には、ここで戦況を確認したり、軍議を執り行ったりしたのでしょうか。

門はいり二の丸を超えると常盤木門があり、そこを入ると本丸です。

天守閣に入るのは入場料500円。せっかくだから入ることにしました。

まぁ、そもそも100名城スタンプが天守閣の入口に置いてありますので、心の強い人以外はスタンプを押すために入場することになると思います。

中には北条早雲から続く5代の北条氏の歴史を中心に良くまとまっています。

最上階は外に出ることができ、小田原の街を一望できます。

曇りだったのであまり景色は良くなかったのですが、晴れていればいろいろな場所が見れたのでしょう。

非常に見ごたえのあるお城でした。

 

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