「小川城(おがわじょう)」177城目@日本の城 #滋賀県

■城名
小川城(おがわじょう)

■別名
信楽小川城、小川鶴見城

■所在地
滋賀県甲賀市信楽町小川

■見ごたえ
★★

■築城年
嘉元3年(1305)

■築城者
鶴見長実

■主な城主
小川(鶴見)氏、多羅尾氏

■城分類
山城

■遺構
曲輪、石垣、土塁、堀切、虎口

■歴史(ChatGPTより)

小川城(おがわじょう)は、甲賀市 信楽町小川に所在する山城であり、伊賀と近江の国境に近い交通の要衝を押さえる重要な拠点であった。築城年代や築城者については明確ではないが、鎌倉時代末期に鶴見長実 によって築かれたと伝えられている。それ以前、この地域は興福寺領・信楽荘に属し、下司職を務めた小川氏が支配していたが、鶴見氏が近衛家に従って入部すると勢力は交代した。しかし鶴見氏は後継に恵まれず、小川氏から養子を迎えたことで、両者は次第に融合していったと考えられている。

室町時代に入ると、在地の有力国衆である多羅尾氏 が台頭し、鶴見氏を破ってこの地域を掌握した。以後、小川周辺は多羅尾氏の支配下に置かれ、城もまたその拠点として整備されていく。とりわけ戦国時代後期、多羅尾光俊 の代には大規模な改修が行われたとされ、発掘調査や文献からも、天正13年(1585)から天正18年(1590)にかけて防御機能の強化が図られたことが推定されている。これは東国方面への備えを意識したものであり、小川城が広域的な軍事戦略の中に組み込まれていたことを示している。

また、小川城は戦国史の重要事件とも関わりを持つ。天正10年(1582年)、本能寺の変 によって織田信長 が横死すると、堺に滞在していた徳川家康 は急遽三河への帰還を図り、いわゆる「伊賀越え」を決行した。この際、多羅尾氏は家康一行の護衛を務め、伊賀国境まで安全に導いたとされる。そして家康が一夜を過ごした場所として小川城の名が伝わるが、実際には麓に位置する小川中之城であった可能性が高いと考えられている。この逸話は、小川城周辺が当時いかに重要な中継地点であったかを物語っている。

しかし、その後の運命は長くは続かなかった。文禄4年(1594年)、豊臣秀次 が失脚したいわゆる秀次事件に連座し、多羅尾氏は改易となる。これにより小川城もその役割を終え、廃城となった。一方で、多羅尾氏は伊賀越えでの功績を評価され、江戸時代には幕府代官として復帰し、幕末まで家名を存続させている。

城の構造は、標高約470メートルの城山に築かれた典型的な山城である。山頂部には主郭が置かれ、その周囲を土塁が囲み、虎口や櫓台状の高まりが設けられている。さらに周辺には複数の曲輪が雛壇状に配置され、石垣で補強された区画や礎石建物跡も確認されている。大手口付近には土塁に囲まれた曲輪が連続し、南へ延びる尾根は堀切によって遮断されるなど、防御性の高い構造を備えている。また、出丸を経て麓の小川中之城へと連絡する導線も整えられており、詰城と居館の機能分担が明確であったことがうかがえる。

現在、小川城跡は整備が進み、遺構を比較的良好な状態で確認できる山城として知られている。土塁や堀切、曲輪配置などは戦国後期の実戦的築城技術をよく伝えており、地域の歴史と戦国期の軍事拠点の実像を理解する上で貴重な遺跡となっている。伊賀・甲賀という歴史的にも独特な地域に位置するこの城は、単なる地方城郭にとどまらず、戦国時代の広域的な動きと密接に関わる存在であったと言えるだろう。

■場所

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■城巡り記録

2026年3月29日

神君伊賀越えジャーニーランというマラソン大会のチェックポイント。

しかし、立ち寄った時間は真夜中で、しかも一人。

ものすごい怖いです。

ヘッドライト一つで山城を登るなんて体験したことない。

明るいときに登りたかった。

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