
■城名
亀山城(かめやまじょう)
■別名
粉蝶城、胡蝶城
■所在地
三重県亀山市本丸町
■見ごたえ
★★★
■築城年
文永2年(1265)
■廃城年
明治6年(1873)
■築城者
関実忠
■主な改修者
岡本宗憲、本多俊次
■主な城主
関氏、岡本氏、本多氏、石川氏、三宅氏、板倉氏
■天守
不明
■城郭構造
梯郭式
■城分類
平山城
■遺構
曲輪、多聞櫓、石垣、土塁、横堀
■再建造物
県史跡(旧亀山城多聞楼)
■歴史(ChatGPTより)
亀山城(かめやまじょう)は、現在の亀山市 本丸町に所在した城郭で、伊勢国鈴鹿郡を代表する拠点の一つである。別名を粉蝶城(こちょうじょう)とも称し、その優美な呼称とは対照的に、戦国期から江戸時代にかけては交通・軍事の要衝として重要な役割を担った。
築城は文永2年(1265年)、伊勢平氏の流れをくむ関実忠 によって、当初は現在の若山町付近にあたる若山の地に行われた。関氏は神戸・国府・鹿伏兎・峯・亀山の五城を拠点とする「関五家」の宗家にあたり、その本拠として亀山城は大きな意味を持っていた。その後、城は現在の位置へと移され、以降も関氏の本城として機能し続けた。
戦国時代に入ると情勢は大きく動く。永禄10年(1567年)、織田信長 による伊勢侵攻が始まると、亀山城周辺はたびたび戦火に巻き込まれ、激しい争奪の舞台となった。やがて天正11年(1583年)には蒲生氏郷 が入城し、さらに天正18年(1590年)には豊臣秀吉 に従った岡本良勝が城主となる。この時期に天守や本丸・二の丸・三の丸といった近世城郭の基盤が整備され、現在に伝わる亀山城の原型が形作られたとされる。
江戸時代に入ると、亀山城は伊勢亀山藩の藩庁として機能する一方、東海道の宿駅に近い立地から、幕府にとっても重要な拠点となった。特に将軍の上洛時には宿泊地として利用され、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光 らが本丸を休泊に用いたと伝えられる。このため、本丸は将軍専用の空間として維持され、実際の城主の居館は二の丸に置かれるという特徴的な運用がなされた。
また江戸初期には、丹波亀山城の天守を破却する命を受けた堀尾忠晴 が誤って伊勢亀山城の天守を取り壊してしまうという逸話も残されている。その後、寛永13年(1636年)に城主となった本多俊次によって大規模な改修が行われ、天守の代替として本丸北側に三重櫓が築かれ、天守台には多聞櫓が設けられた。これにより、防御機能と城郭としての威容が再び整えられた。
しかし明治維新を迎えると、城の運命は大きく変わる。明治6年(1873年)のいわゆる廃城令により、亀山城の建造物の多くは取り壊され、往時の壮大な姿は失われた。現在では天守台や石垣、堀、土塁などが残るにとどまるが、中でも本丸南東に位置する多聞櫓は貴重な遺構として知られる。この多聞櫓は原位置のまま現存する数少ない例であり、「旧亀山城多聞櫓」として三重県の史跡に指定されている。また、二の丸御殿の玄関は市内の遍照寺に移築され、往時の面影を今に伝えている。
このように亀山城は、鎌倉時代の築城以来、戦国の争乱、近世城郭の整備、そして江戸幕府の交通政策と密接に関わりながら変遷してきた城である。東海道の要衝という地理的条件を背景に、軍事・政治・交通の各側面で重要な役割を果たした点に、その歴史的価値があると言えるだろう。現在は遺構を通じて往時を偲ぶことができ、地域の歴史を語る上で欠かせない存在となっている。
■場所
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■城巡り記録
2026年3月29日
マラソン大会中に横を通ったので、せっかくなので外観を見学。
しっかり石垣が残っていていいですね。
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