「臼井城」4城目@日本の城 #千葉県

2021年11月18日

■城名
臼井城

■所在地
千葉県佐倉市臼井田

■称号
御城印のある城

■別名

■築城年
12世紀中頃か

■廃城年
1604年(慶長9年)

■築城者
臼井常康

■主な城主
臼井氏、原氏、酒井家次

■天守
なし

■城郭構造
連郭式

■城分類
平山城

■縄張り

■歴史
享徳の乱の折、文明10年(1478年)12月10日の境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤[注釈 1]の守る臼井城に籠城しました。
太田道灌の率いる上杉方に攻められ、7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11年(1479年)7月15日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられています。

その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されています。

永禄4年(1561年)臼井久胤の時、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主正木信茂に攻められ臼井城は落城し、久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡しました。

永禄9年(1566年)には、上杉謙信と里見義弘に攻められ原胤貞らが臼井城に立て籠り、3月20日には落城寸前となったものの、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井浄三の知謀とその指示に基づいた北条氏側の松田康郷らの戦ばたらきにより謙信を大敗させています。

天正2年(1574年)に原胤栄(胤貞の子)は里見勢に生実城を追われたため、その後原氏が臼井城を本拠とします。

戦国時代末期には原氏が城主でしたが、天正18年(1590年)の小田原征伐で徳川氏に敗れ、酒井家次が3万石で入封します。

文禄2年(1593年)に城内より出火し灰燼に帰し、その後酒井家次は慶長9年(1604年)12月、上野国高崎藩に加増移封、臼井藩は廃藩となり臼井城は廃城となりました。

■見どころ
土塁、空堀、土橋、石垣、郭

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■城巡り記録

2021年11月18日

宿内砦を先に見て、その後臼井城へ。

細い道をどんどん上っていくと臼井城跡公園につきました。

こちらはしっかりと整備された公園で、駐車場もあります。

駐車場は堀となっている部分を活用しています。

駐車場から階段になった場所がありましたので、そこから上ってみました。

上ると広い場所に出ます。

こちらが二の丸となります。

目の前にはきれいな公衆トイレもありました。

誰もいませんでしたが、公園として良さそうな場所です。

その周りは堀で囲まれており、一か所土橋がかかっており、そこから本丸に行くことができます。

土橋の周りの堀は現状でもまだしっかりと深く掘られていました。

遺構としてよく残っていると思います。

こちらが土橋です。

一部遺構を守るためにアスファルトで固められています。

土橋を渡ると坂になっており、本丸につきます。

本丸は二の丸に比べてやや狭いですが、景色が非常に素晴らしいです。

住宅街が良く見えます。

本丸に上る急こう配はもともとの地形でしょうか。

それとも、削ったのでしょうか。

かなりの急こう配でこちら側から上ってくるのは至難の業です。

もう一方からは印旛沼が綺麗に見えます。

印旛沼の先には師戸城が見え、支城群がこの臼井城の周りに多数あったことにより、難攻不落の城となっていたことがよく分かります。

本丸からは搦手の方に降りてみました。

こちらもしっかりと整備されています。

綺麗に整備された階段をゆっくり通りていきあmす。

非常に良いお城でした。

続100名城に選ばれても良いのではと感じさせられました。

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