「福知山城」32城目@続100名城 #京都府

■城名
福知山城(ふくちやまじょう)

■別名
福智山城、横山城、臥龍城、八幡城、掻上城

■所在地
京都府福知山市字内記

■見ごたえ
★★★★

■築城年
天正7年(1579)

■廃城年
明治6年(1873)

■築城者
明智光秀

■主な改修者
有馬豊氏

■主な城主
明智氏、朽木氏

■天守
外観復元天守

■天守構造
複合連結式望楼型[3重4階/1699年築/破却]
複合連結式望楼型[3重4階/1985年再/RC造外観復元]

■城郭構造
連郭式

■城分類
平山城

■遺構
曲輪、石垣、井戸、移築番所、門

■指定文化財
市史跡

■歴史
福智山城(ふくちやまじょう)は、京都府福知山市に位置する平山城であり、戦国時代から近世、そして現代に至るまでの多彩な歴史を持つ名城です。その歴史は室町時代に遡り、もともとは地元の国人領主・塩見頼勝が築いたとされる「横山城」がその前身でした。丹波地方を巡る戦国期の争いのなかで、横山城は織田信長の命を受けた明智光秀により攻略され、やがて現在の福智山城へと生まれ変わることになります。

天正7年(1579年)、明智光秀は丹波平定の拠点として横山城を改修し、これを「福智山城」と名付けます。この時期、光秀は単なる軍事拠点としてだけでなく、領国支配の中核として城下町の整備にも注力しました。自身の家臣であり娘婿でもある明智秀満を城代として配置し、統治の拠点として城を機能させたのです。

しかし天正10年(1582年)の本能寺の変によって、明智光秀が討たれると、福智山城は短期間で支配者を変える運命に巻き込まれます。豊臣秀吉の勢力下では、豊臣秀勝、杉原家次、小野木重勝といった武将たちが城主となり、引き続き丹波の要衝としての役割を担いました。やがて慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、小野木氏は追放され、徳川方の武将である有馬豊氏が城主となり、城は徳川体制下に入ります。

その後も福知山城は細川忠興、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房らによって治められますが、最も長期にわたり城を支配したのは、寛文9年(1669年)以降に入封した朽木氏でした。朽木家は明治維新に至るまで13代にわたって福知山藩を治め、城と城下町の安定した発展を支え続けました。この頃、城の呼称も現在の「福知山城」に定着したと考えられています。

明治時代に入ると、全国の多くの城と同様に福知山城も廃城令によって主要な建物が破却され、石垣と一部の門や番所のみが残されることとなりました。それでも市民の間では城への愛着が強く残り、昭和60年(1985年)には市民運動による募金活動「一人一瓦運動」が実を結び、翌年に大天守と小天守が再建されました。この再建によって福知山城は再び地域の象徴として蘇り、観光・教育の場としても活用されるようになります。

■再建造物
復元大・小天守、釣鐘門、石碑、説明板

■ご城印

■場所

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■城巡り記録

2025年7月12日

明智光秀のお城です。

明智光秀といえば本能寺の変で主君織田信長に謀反したのですが、NHKの麒麟がくるを見てから見方が変わりました。

この福知山では明智光秀は慕われているみたいですし、いろいろな見方がありますね。

そんな福知山城、9時からなのですが8時30分に到着したので、御城の周りを先に見学していました。

野面積みの石垣が立派ですね。

転用石も多いみたいです。

9時に天守が開いたので入ります。

入場券を購入し、続100名城スタンプを押印。

そして、御城印も購入しました。

少し小高い丘に建っているため、天守からの景色は綺麗です。

福知山城を堪能しました。

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