■城名
山中城(やまなかじょう)
■所在地
静岡県三島市
■見ごたえ
★★★★★
■称号
日本100名城
■築城年
永禄年間(1558年~1570年)
■廃城年
1590年(天正18年)
■築城者
北条氏康
■主な改修者
北条氏政
■主な城主
松田氏
■天守
なし
■城分類
山城
■歴史
静岡県三島市にある日本の戦国時代の山城で、北条氏が豊臣軍の侵攻に備えて築いた防御施設です。標高580メートルの山中に位置し、箱根山の西側斜面に築かれたことから、自然地形を巧みに利用した難攻不落の構造で知られています。山中城は、特に「障子堀(しょうじぼり)」という、特徴的な障壁構造を持つ堀が見られ、現代でもその遺構がよく保存されています。
山中城は、小田原北条氏の守りの要として、武田氏や今川氏の侵攻から伊豆や相模を守る役割を担っていました。1570年代から築城が始まり、北条氏政の命で、急激に整備が進められました。特に1580年代後半には、豊臣秀吉による小田原征伐の備えとして拡張が行われ、障子堀や畝堀(うねぼり)など、複雑な構造が追加されました。
1589年からの豊臣軍の動向に伴い山中城は再整備され、最前線としての防衛体制を整えていましたが、1590年、豊臣秀吉による小田原攻めで山中城は包囲されました。豊臣軍は、東海道を進んで三島方面から攻め入り、わずか半日で山中城を攻略しました。この戦闘で城将・松田康長をはじめとする多くの北条方の武士が討ち死にし、山中城は陥落しました。
豊臣方の総勢およそ7万の大軍に対し、山中城は僅か数千で防御を行っていましたが、秀吉の最新の軍事技術と圧倒的な兵力には抗しきれませんでした。その後、山中城は廃城となり、建物や資材は撤去されましたが、城跡の土塁や堀は今でも良好に残っており、国指定の史跡として保護されています。
■遺構
曲輪、堀、土塁
■指定文化財
国の史跡
■ご城印
■場所
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■城巡り記録
2024年10月20日
東京近郊からそれほど遠くないけど行きにくいお城に行ってきました。
公共交通機関だとかなり大変なので、バイクツーリングを兼ねて行きました。
まずは100名城スタンプを。
山中城氏案内所・売店の前に置かれていますが、中にも置かれていました。
せっかくなら店内で落ち着いて押した方が良いかと思います。
店内ではご城印も販売しています。
3種類売られていたので、3種類とも購入しました。
その隣には、障子堀ワッフルが1個200円で売られています。
あとで案内の人に本物の障子堀とワッフルを並べて写真撮る人が多いですよと言われ、購入しておけばよかったと後悔しました。
障子堀を観に行く前にワッフルの購入を忘れずに。
道を渡って山中城へ。
何処から入るのか分からなかったので、案内のボランティアの方にお聞きしたら案内もしてくれることになりました。
やはりしっかりとしたそのお城の案内があるといいですよね。
お城に入るといきなり土塁と空堀があります。
これはなかなかのお城です。
さらに進むと池があります。
こちらの池は馬などの水だとかで、人間用のため池はもう少し上にあるそうです。
ここから急坂を上っていきます。
現状は草がしっかり生えていますが、小田原攻めの時は土。
これがものすごい滑ったそうです。
長く続く土塁も立派です。
ちょうど、センゴク権兵衛という漫画を読んで、山中城の戦いを学んだところだったので非常に役立ちました。
さらに進んで本丸を横切って、有名な堀を観に行きます。
西の丸物見台へ。
西の丸は結構な高台になっていて、見晴らしがよいです。
ここから手前にある西櫓が見えますが、周りは土塁に囲まれていますが、こちらの方だけ土塁が無いのだとか。
西の丸の方が高い位置にあり、もし西櫓が占領されても、西の丸から攻撃できるようにするためとの事です。
そこから、横の西の丸畝堀を見ながら西櫓へ。
この間にあるのが有名な障子堀です。
正確には堀障子というようですが、いろいろな資料、看板も障子堀。
まぁ、どちらでもいいか。
これが火山の赤土だと滑って登れないのだとか。
確かに厳しいかもしれません。
それでもこの方面から徳川家康など4万の兵で攻撃を受け、4千の守備兵では半日しか持たず落城したのだとか。
当時は西の丸から橋が架かっていたり、この先も橋があったそうで、西櫓のあった場所が角馬出になっていたのだとか。
武田は丸馬出ですが、北条は角馬出。
特徴的ですね。
景色が良ければ富士山や駿河湾なども見えるのだとか。
残念ながら行った日は強風および小雨。全く景色は見えませんでした。
そのあと宗閑寺に行きました。
こちらのお寺は山中城の副将であった間宮康俊(まみや やすとし)の娘・お久が、父や戦死した間宮一族、さらには敵味方を問わず山中城攻防戦で命を落とした多くの武士たちの霊を弔うため、お久は徳川家康の側室となっており、徳川家康に頼み、山中城の三の丸跡に建立したと伝えられています。
父の仇の側室となるのは戦国時代の難しさですね。
そこから最初の場所に戻り、少し旧東海道である箱根旧街道の石畳をみました。
この堅牢な城が半日で落城とは、やはり大軍には勝てないということかもしれません。
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