■城名
菅谷館(すがややかた)
■別名
菅谷城
■所在地
埼玉県比企郡嵐山町
■称号
続日本100名城
■築城年
不明
■廃城年
不明
■築城者
不明
■主な改修者
不明
■主な城主
畠山重忠、上杉 顕定(うえすぎ あきさだ)
■天守
なし
■天守構造
–
■城郭構造
■城分類
平城
■縄張
館跡は都幾川と槻川の合流点北側の低台地にある平城で、館(城)の付近を鎌倉街道上道が通っていました。
館跡中央のやや南寄りに平面長方形の本郭があり、その北側に二の郭、三の郭などを配置していて、それぞれの郭を土塁と堀で防備しています。
■歴史
鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡といわれています。
元久2年(1205年)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で戦死したのちは畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられようです。
長享2年(1488年)、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と扇谷上杉家が激戦を繰り広げ(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に対するおさえとして、菅谷の旧城を再興しました。
「長享の乱」と呼ばれた一連の戦乱は山内上杉方の勝利に終わり、敗れた扇谷上杉朝良が一時菅谷城に幽閉されました。
以後、16世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われます。
■遺構
土塁、横堀、虎口、土橋
■ご城印
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■城巡り記録
2021年12月16日
菅谷館に訪れました。
「埼玉県立嵐山史跡の博物館 」が併設されていて、そちらにスタンプがおかれています。
先にスタンプを押しました。
畠山氏の居城として知られており、畠山重忠の像が置かれています。
いやはや、この時は畠山重忠がどのような人物か知らず、特に鎌倉時代についてはあまり興味を持っていなかったため、見学も流し読みで終わらせてしまいました。
それが、今やNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で非常に魅力的な人物となっており、この時しっかりと見ておけばよかったなぁと後悔しています。
また、この辺りは同じく比企氏の領土であり、比企城館跡群として指定されています。
比企氏も鎌倉時代の有力御家人です。
今日はこの菅谷館跡を見る前に杉山城と小倉城も見てきました。
そのため、こちらの知識が得られたのは良かったです。
特に小倉城は予想以上に山城で、石垣もあり、見ごたえがありました。
杉山城は堅牢な城としてあまりにも有名でしたので、予想通り良かったのですが、小倉城はそれほど期待していなかったので、予想以上に良かったというのが正しいかもしれません。
菅谷館跡を早速まわってみます。
それほど広いわけでもないので、山城のように疲れることはありません。
高い土塁と深い堀に囲まれ、本郭、二ノ郭、三ノ郭、西ノ郭、南郭の5つに分けられるそうです。
案内板や石碑もあり、しっかり整備されています。
本郭に向かう虎口は周りの土塁が非常に高く積まれています。
そして土塁の手前の堀もかなり深いです。
それでも現在の姿は風化していると思いますので、当時は土塁はもっと高く、堀はもっと深く作られていたのでしょう。
館としてはかなり防備に優れた作りであったのではないでしょうか。
本郭はかなり広い広場になっています。
ここには館が建っていたのでしょうか。
本郭から一度堀に降りまた登るような構造です。
当時はこの辺は木橋がかかっていたのでしょうか。
いろいろと当時の風景を思い浮かべることが出来ます。
本郭の周りをぐるっと回ってみました。
非常に整備されていて歩きやすいです。
そこから階段を上ります。
堀や土塁が良く残っています。
本郭の周りの堀は特に深いです。
この土塁の上に塀が築かれていたら、かなり攻めにくいのではないかと思います。
本郭から二の郭に沿って堀をみて、三の郭にもどります。
さらに三の郭から復元された木橋を渡って、西の郭に行ってみました。
この木橋もなかなかいいですね。
西の郭の先に大手門があったようですが、ここですかというような場所に現在はなっています。
もう少し歴史を学んでから行くべき場所でした。
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