「前橋城(まえばしじょう)」54城目@日本の城 #群馬県前橋市

■城名
前橋城(まえばしじょう)

■別名
厩橋城(まやばしじょう)

■所在地
群馬県前橋市大手町

■称号
関東七名城

■築城年
15世紀末

■廃城年
明治4年(1871)

■築城者
長野方業、松平直克

■主な改修者
酒井重忠

■主な城主
長尾氏、上杉氏、平岩氏、酒井氏、松平氏

■天守
型式不明[3重3階/1601年築/破却]

■城郭構造
輪郭式

■城分類
平城

■縄張
利根川と広瀬川を外堀とする渦郭式の平城で、周囲に城下町が発展し、今日の前橋市中心街となりました。

前橋城は江戸時代には前橋藩の藩庁ともなりましたが、その一方で、暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に始終翻弄されました。

■歴史
室町時代中期の15世紀末頃に長野氏の拠点であった箕輪城の支城として築かれた石倉城がその始まりであるとされています。
天文20年(1551年)、厩橋城は上野国に侵攻した後北条氏に付きました。
永禄3年(1560年)、景虎の長尾軍が厩橋城を攻め取り、河田長親が城代となります。
永禄6年(1563年)小田原北条・甲斐武田の連合軍により攻め落とされました。
城はその後、再び上杉家に取り戻され、越後の北条高広が城代に据えられました。
だが永禄10年(1567年)にはその北条高広が北条陣営へ寝返ったことにより、周辺は再び北条家の勢力圏となります。
その後、越相同盟によって北条高広は上杉家へ帰参することが取り決められ、厩橋城は上杉方に引き渡されます。
高広は謙信の死後の天正7年(1579年)、御館の乱で越後の本拠地を失い、勝頼率いる武田氏に降伏しました。
天正10年(1582年)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされ、織田方の滝川一益が上州を支配することとなり、高広は滝川に厩橋城を引き渡しました。
同6月の本能寺の変の後、神流川の戦いで北条氏直に敗れた一益は上州から撤退。
北条高広や上杉氏らのせめぎ合いの末、上州の大半および厩橋城は後北条氏の元に入ります。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、豊臣方の浅野長政により攻め落とされ、同年8月、関東を任された徳川家康の支配するところとなり、家臣平岩親吉を厩橋城に置き、3万3千石を与えられました。

■遺構
曲輪、石垣、土塁、横堀

■ご城印

■場所

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■城巡り記録

2023年6月7日

前橋城に行ってきました。

まずはご城印を購入するために前橋駅の中にあるお土産屋さん、ヴェントまえばしへ行きます。

何処にご城印が置いてあるのかなと、レジの前に行ったのですがなくて、ふと後ろの方を見てみるとびっくりです。

これ全部ご城印というレベルであります。

というか、多すぎですね。

これはさすがにやりすぎのレベルです。

100名城でもないのに、ここまで用意するかなぁと・・・。

しかもこの前橋城はあまり遺構が残っていないのにね。

しかしまぁ、関東七名城ではありますので。

ご城印を購入したら、前橋城見学へ。

まずは車橋門跡へ行きました。

こちらは関東四名城と記載されていますが、七名城のうちのどのお城を差すのでしょうか。

前橋城の遺構は既に本丸土塁とこの門跡くらいしかないそうです。

お城の外曲輪から城内に入るための重要な門だったとのこと。

残っている石垣は切込接ぎできっちりと詰まっています。

そして本丸跡は県庁の大きなビルが建っています。

そんな県庁の隅の方に土塁が残されています。

そこには前橋城の復元図もありました。

もとは大きな敷地だったようですね。

土塁ですが、しっかりと保存されていました。

土塁の上に登れるようになっていて、登ると石碑がありました。

昔は土塁が周囲を張り巡らされていて、堅牢なお城であったことをうかがわせます。

もはやこの一部の土塁だけになってしまっていますが、せめてここだけはしっかりと保存してもらいたいです。

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