「玉縄城」40城目@日本の城 #神奈川県鎌倉市

■城名
玉縄城(たまなわじょう)

■別名
甘縄城

■所在地
神奈川県鎌倉市城廻200

■見ごたえ
★★★

■築城年
永正10年(1513)

■廃城年
1619年(元和5年)

■築城者
北条早雲

■主な改修者
北条氏綱

■主な城主
北条氏時、北条綱成、北条氏繁、北条氏勝、本多正信

■城分類
平山城

■縄張
城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点でした。
さらに鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面がありました。

■歴史
永正9年(1512年)に北条早雲(伊勢盛時)により築かれたとされていますが、それ以前から砦か小城があった可能性も考えられています。
大森氏の小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の相模三浦氏と争いますが、長期戦となりました。
この際、同氏の主筋である武蔵の扇谷上杉家当主上杉朝興が新井城に籠る三浦義同の援軍として挟撃してくることへの備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築かれました。
三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえ、また小田原城の守りとしての役割も担いました。
北条氏時代には、一門の重要人物が城主として置かれました。
初代城主氏時は早雲の実子であるが享禄4年(1531年)に急逝。
そのため、氏綱の実子である2代城主為昌が玉縄城に入りましたがまだ少年であり、扇谷上杉家との戦いや里見氏の攻撃で焼失した鶴岡八幡宮の再建指揮も兼ねて父である氏綱が小田原城と玉縄城を往復して政務をみました。
その後、氏綱は小田原城に戻ったものの、為昌は天文11年(1542年)に急逝します。
このため、氏綱の娘婿で長く城代として為昌を補佐してきた北条綱成が「為昌の養子」という名目で3代城主となりました。
以後、綱成の子氏繁、氏繁の嫡男氏舜、その弟氏勝と4代にわたって城主の地位が継承されました。
豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐においては、玉縄城主北条氏勝は山中城の守備に就いていましたが落城が迫り責任をとり自害を考えます。
しかし弟の北条直重らに諌められ思い留まり、敗残兵を伴い落ち延び、諸将が集結する小田原を素通りして本拠地玉縄城に戻り籠城したことにより小田原城の北条氏政の疑心を招きます。
玉縄城は徳川家康軍に包囲されましたが、地元の龍寶寺住職からの説得により4月21日に、降伏・開城。
開城後は徳川氏や古田重然、瀬田正忠らが守備しました。
以降氏勝は、下総地方の北条方の城の降伏開城に尽力し、戦後は徳川家の家臣となり、下総岩富城1万石の領主となり、岩富藩を立藩しました。
徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信・水野忠守の居城となりましたが、慶長20年(1615年)の一国一城令を受けて元和5年(1619年)に廃城となりました。

■遺構
曲輪

■場所

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■城巡り記録

2022年12月26日”

北条早雲が築いた戦国の城、玉縄城に行ってきました。


こちらのお城はあまり知らなかったのですが、信長の野望というゲームをやっていると神奈川県は小田原城と玉縄城がでてきて興味を持ちました。

行ってみると本丸のあった場所やその他大部分は学校の敷地となっていました。

許可を取ると学校内に入れるそうですが、今回はそこまではせず、周りを見学します。

大手門跡にはイメージ図と説明がありました。


そこからすぐ近くに太鼓櫓跡があります。

こちらが普通に見れる最も良い場所でしょうか。

上った先の景色もよく、住宅地に囲まれていますが、なんとか残してもらっている感じです。

その横には、しっかりと整備された通路があり、少し進むと階段になっています。


こちらが七曲坂武者だまり跡だそうです。


この坂の中腹にある広場で武者が防衛拠点を築いていたとか。


上杉、武田、里見、徳川。名だたる大名が攻めあぐねたお城とのことですごいですね。

学校の中に入らない場合は見どころはこれくらいなので、ちょっと残念です。

ゆくゆくは玉縄城が有名になって、もっと大規模に保存対象になるといいのになぁと思いました。

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