「山形城」#山形

■城名
山形城

■所在地
山形県山形市霞城町

■称号
日本100名城

■別名
霞城、霞ヶ城、吉字城

■築城年
1356年

■廃城年
1871年(明治4年)

■築城者
斯波兼頼

■主な改修者
最上義光、鳥居忠政

■主な城主
最上氏、鳥居氏、堀田氏、秋元氏他

■天守
なし(御三階櫓)

■天守構造

■城郭構造
輪郭式

■城分類
平城

■縄張り
おおよその城郭構造の基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。
現在は、武家屋敷群のあった三の丸が市街地化しているが、本丸、二の丸跡が霞城公園として残されている。
建造物では、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存する。
山形城は、本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された輪郭式平城である。
二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門が作られた。中世の居館を拡張して城郭とし、本丸は御殿のみで天守は造られなかったが二ノ丸に代用の三重櫓が建てられていた。ただこの三重櫓は元禄期(1688~1704)までに取り壊されている。二の丸は一辺500メートルほどの方形、三の丸は1.5キロメートルから2キロメートルほどの楕円形であった。本丸には御殿、二の丸には藩の政庁と御三階櫓が、三の丸には534人の上級、中級の最上家家臣の屋敷、城外には1,326人の家臣の屋敷と寺院が町方を取り囲むように置かれた。

■歴史
山形城が立地するのは山形盆地南側、馬見ヶ崎川扇状地の中央やや北寄りに位置する。羽州街道と笹谷峠の合流点に当たり、鎌倉時代までは最上郡の中心として栄えた。
1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)初期の山形城が築城される。
以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった
最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれた。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となる。
元和8年(1622年)に最上氏が改易された後、鳥居忠政により改修がなされた。
鳥居氏以後もたびたび藩主家の変更があったが、格式・規模が次第に低下したため、江戸中期以降は城の維持が困難になった。幕末には御殿は二の丸に置かれ、本丸は更地で、三の丸の西半分は田畑になっていた。
1870年(明治3年)に山形藩が転封となったとき、長く使われずにいた城郭は大破し、外壁・矢倉も風雪に耐えかねる状態であった
城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍の駐屯地を誘致した。

■見どころ
(遺構)石垣、堀、移築門、移築御殿
(再建造物)二の丸東大手門、大手橋

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