「姫路城」6城目@100名城 #兵庫

2019年2月4日

■城名
姫路城

■所在地
兵庫県

■称号
世界遺産、現存12天守、国宝5城、三名城、日本五大名城 、三大平山城、三大連立式平山城、日本100名城

■別名
白鷺城

■築城年
1346年

■築城者
赤松貞範

■主な改修者
黒田重隆・羽柴秀吉・池田輝政

■主な城主
小寺氏・黒田氏・池田氏・本多氏・松平氏・榊原氏・酒井氏

■天守
現存天守

■天守構造
連立式望楼型
5重6階地下1階

■城郭構造
渦郭式

■城分類
平山城

■縄張り
姫路城は播磨国飾磨郡のち飾東郡姫路、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。
江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
「国宝五城」や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。

■歴史
1333年(元弘3年)、元弘の乱で護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた。
南北朝の争乱で足利尊氏に呼応した則村が再度挙兵し、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした。
1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに庄山城(しょうやまじょう)を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める
1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で赤松満祐・教康父子に対して山名宗全が挙兵、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶、赤松満祐に属していた城代の小寺職治は討死した。その後、山名氏が播磨国守護に、山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。1458年(長禄2年)、長禄の変で後南朝から神爾を取り戻した功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許された。
1467年(応仁元年)、応仁の乱で山名氏に対立する細川勝元方に与した政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、当城に本丸・鶴見丸・亀居丸を築いた。
1469年(文明元年)、則村が隣国の但馬国に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代になった。
1491年(延徳3年)、豊職の子・政隆が城代になり、御着城(姫路市御国野町御着)を築城開始。
1519年(永正16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になった。
1545年(天文14年)、則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。黒田重隆・職隆父子が主君で御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として1555年(天文24年)から1561年(永禄4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。
1567年(永禄10年)、職隆の子・孝高が城代になった。
1568年(永禄11年)、青山・土器山の戦いで赤松政秀軍の約3,000人に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300人という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退する。
以後、1573年(天正元年)まで孝高(官兵衛・如水)が城代を務めた。
1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国路の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。
1577年(天正5年)、孝高は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。
1580年(天正8年)、三木城・英賀城などが落城し播磨が平定されると孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移った。
秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する
1581年(天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣した(中国攻め#鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年)。
1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った。
1600年(慶長5年)、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。
輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた。
普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 – 5千万人であろうと推定されている。
また、姫路城の支城として播磨国内の明石城(船上城)・赤穂城・三木城・利神城・龍野城(鶏籠山城)・高砂城も整備された。
1617年(元和3年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、山陽道の要衝を任せるには不安であることを理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。
忠政は城の西側を流れる妹背川を飾磨津までの舟運河川に改修し船場川と改名した
1618年(元和4年)には千姫が本多忠刻に嫁いだ化粧料を元に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。

■見どころ
(遺構)現存天守・櫓・門・塀・石垣・堀・土塁・庭園
(国宝)大小天守と渡櫓等8棟
(重要文化財)櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟

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日本のお城の中で最高峰、世界遺産となっている姫路城に行ってきました。

お城でどこが好きですかと聞かれて、姫路城と答える人は見た目だけにこだわっているのではと思っていたのですが、やっぱり姫路城はすごかったです。

姫路駅を降りたらすぐ見えますが、大通りを近づいていくとどんどん大きなお城が見えてきます。

門には世界遺産登録25周年と書かれています。

だいぶ前から世界遺産登録されていたんですね。

あまり気にしたことがありませんでしたが、すごいことですね。

門をくぐると真正面に天守閣が見えます。

大きい。

6層5階建ての巨大な天守閣を見ると昔の建築技術のすごさを感じさせられます。

少し歩いてからさらに見ると斜め横顔の天守閣。

こちらもいいですね。

平山城ですが、かなり天守閣まで登る必要があることが分かります。

攻めづらそうなお城です。

お城への入場料はさすが世界遺産。

ほかのお城は無料や200円というところが多い中、こちらは大人1000円です。

これはいい値段しますね。それでもものすごい観光客です。

今日は平日なんですけど、外国人も多数います。

中はずっと坂です。

道はかなり入り組んでいて、天守閣に近づいたり遠ざかったり。

塀に矢狭間や鉄砲狭間が多数開けられています。

長方形が矢狭間、丸や三角が鉄砲狭間らしいです。

これだけの距離にこれだけの狭間があると攻めたときにかなりやられそうです。

特に道が狭いので、一気にいけないようにしているところもすごく、いざとなったら道をふさいでしまうとのことです。工夫されています。

やっと天守に近づけました。

大きい。そして白い。

さすが白鷺城と呼ばれるだけのことはあります。

さらに大改修を行ったことにより、漆喰が非常に白くて輝いて見えます。

屋根と入り組んだ場所も圧巻ですね。

大天守の中も入りました。

6歳の息子と一緒に行ったので、急な階段が怖かったですが、息子はすいすいと上っていったので安心しました。

天守閣の中も色々と見たかったのですが、こちらは息子がすいすいと進んでいってしまうため見ることが出来ず。

それでも、1時間以上はかかります。

見ごたえが半端ないですね。

石垣も綺麗に積まれています。

一つだけ巨大な石がありました。

そして、播州皿屋敷の古井戸。

宮本武蔵の妖怪退治伝説など、いろいろな話があります。

このお城は一人でじっくりと見たいお城ですね。

また今度来たいと思います。

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