「出石城・有子山城」31城目@続100名城 #兵庫県

■城名
有子山城(ありこやまじょう)

■別名
山名氏城館

■所在地
兵庫県豊岡市出石町宮内

■見ごたえ
★★★★

■築城年
天正2年(1574)

■廃城年
慶長9年(1604)

■築城者
山名祐豊

■主な城主
前野氏、小出氏

■城分類
山城

■遺構
竪堀、土橋

■指定文化財
国史跡

■城名
出石城(いずしじょう)

■別名
高城

■所在地
兵庫県豊岡市出石町内町

■見ごたえ
★★★

■築城年
慶長9年(1604)

■廃城年
明治4年(1871)

■築城者
小出吉英

■主な城主
小出氏、松平氏、仙石氏

■天守
なし

■城郭構造
梯郭式

■城分類
平山城

■遺構
曲輪、石垣、櫓、横堀

■指定文化財
市史跡

■歴史
出石城(いずしじょう)は、兵庫県豊岡市出石町に位置する近世城郭で、近世以前には有子山(ありこやま)城、さらにその前身として此隅山(このすみやま)城が築かれていました。出石は古代から但馬国の政治・宗教の中心地とされ、後に但馬守護を務めた山名氏の拠点となったことで、戦国期から江戸期にかけての重要な城下町として発展します。

出石城の起源をたどると、南北朝時代にまで遡ります。山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義は、出石神社の北側にそびえる**此隅山(このすみやま)**に城を築き、これが後の出石城の始まりとなります。此隅山城は長らく山名氏の本拠地でしたが、戦国時代の動乱により、その支配体制は次第に揺らいでいきます。

永禄12年(1569年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が但馬遠征を行い、此隅山城は落城します。山名氏当主山名祐豊は一時的に所領を失いますが、茶人であり外交僧としても知られる今井宗久の仲介により織田方と和睦し、領地に復帰しました。

天正2年(1574年)、山名祐豊は防御力強化を図るべく、標高321メートルの有子山に新たな城を築きました。これが有子山城であり、天守を山頂に置き、麓には「下館」と呼ばれる居館や守護所を整備し、山と麓が一体となった本格的な城下町を形成します。

しかし、山名氏の勢力は長くは続きません。毛利氏と織田氏が対立を深める中で、山名祐豊は毛利方についたため、天正8年(1580年)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐が行われ、有子山城は再び落城。これにより、山名氏は但馬における戦国大名としての地位を完全に失いました。

以後、有子山城には城代が置かれる時代を経て、天正13年(1585年)には豊臣政権下で前野長康が城主となり、文禄4年(1595年)からは小出吉政が城主を務めるようになります。関ヶ原の戦いでは、小出氏は兄・吉政が西軍、弟・秀家が東軍に属し、結果的に秀家の功績により小出家の所領は安堵され、出石の地を保持し続けました。

その後、慶長9年(1604年)、吉政の子小出吉英は、有子山城の山頂部(本丸・天守)を廃し、山麓にあった郭と館を整備して、これを正式に「出石城」と名付けて幕府に届け出ます。これにより、出石城は山城から平山城へと姿を変え、近世城郭として整備が進められました。三の丸、二の丸、本丸、稲荷丸などが階段状に築かれ、城主の居館も構えられ、同時に周囲の城下町の町割りも整えられました。

江戸時代に入り、出石城は出石藩の藩庁となります。小出氏の支配は元禄9年(1696年)、当主小出英及が3歳で死去し、無嗣改易となることで幕を閉じました。その後、出石には松平(藤井)忠周が一時入城しますが、宝永3年(1706年)には仙石政明が入部し、以後、廃藩置県まで仙石氏が出石城の城主を務めました。幕末には、藩主の世継ぎ問題を巡って仙石騒動と呼ばれる内紛が発生し、幕府の介入を受ける事態にまで発展しています。

明治維新後、出石城も他の多くの城郭と同様に廃城令により取り壊されましたが、現在でも当時を偲ばせる遺構が数多く残されています。特に、石垣、堀、稲荷丸跡、登城門・登城橋の復元などが整備されており、また日本最古級の時計台として知られる**辰鼓楼(しんころう)**が城下町の象徴として今も人々に親しまれています。城の周囲は現在「登城橋河川公園」として整備されており、出石の歴史的景観を残しながら、観光地としての賑わいを見せています。

さらに出石の城下町は、江戸時代の町割りがよく残っており、現在でも碁盤の目状の町並みや武家屋敷跡、古民家などが散在しています。出石そばなどの食文化ともあいまって、歴史と文化の融合した魅力ある町として、多くの観光客を惹きつけてやみません。

■ご城印

■場所

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■城巡り記録

2025年7月11日

竹田城から続けて出石城に来ました。

バイクだと移動しやすくて良いです。

出石城は交通の便が悪いのでなかなか行くことが出来ないと思っていたのですが、非常に良い機会となりました。

こちらのお城は仙石家が一時期収めていたお城で、仙石権兵衛の頃は長野の小諸城でしたが、その後この出石に国替えとなったそうです。

その時に小諸のそば職人が一緒に移ってこの出石にそばが流行ったとか。

漫画のセンゴクシリーズが大好きなので一度は来たいと思っていました。

到着してすぐにおそばを食べます。

出石そばを出す店はかなりありましたが、非常に景色が良いお店で食べることにしました。

14時30分を過ぎていたのでお店は空いており、良い席に座らせて貰えました。

出石そばを注文します。1100円です。

少しずつの量のそばが小分けにされていて、とろろや卵などと一緒に味変をしながら楽しみます。

いや、美味しいですね。5皿だと足りないのですが、これから山登りを控えているので抑えめにしました。

観光案内所に立ち寄り、続100名城スタンプを押印し、御城印を購入します。

さらに、荷物を300円で預かってくれるとのことでしたので、預かってもらいました。

有子山城は結構大変らしいです。

17時までで、登りは1時間かかるので無理そうだったら引き返してきてねとのこと。

あと熊が有子山城で出没はしていないけど、近くの山で目撃されており尾根づたいに来るかもしれないとのことでした。

さっそく出石城から見学。

ここなら見学は容易ですね。

神社に祀られているのは仙石権兵衛とのことです。

出石に来ていないと思いますが、出石ではかなり慕われているそうです。

      

赤い鳥居が連なっている階段を上っていくといよいよ有子山城へ。

下からみると結構高い位置に本丸があるのが見えましたが、上ってみると予想通り大変でした。

いや、それほど大変じゃないだろうと思って上ったので余計大変でした。

さすがに1時間はかからなかったですが、30分強かかったかな。

山道は結構整備されているのですが、この山道の階段が苦手でゆっくり登ればよいのに頑張ってしまうので疲れました。

土は砂状になっているところもあり、結構滑ります。

木の根の階段はどこに足をつこうか悩みます。

だからトレランは好きになれないんだよなぁと思いながら上っていました。

階段を上りきったら、やっと普通の上り坂になります。

ホッとしました。この階段がずっと続いていたらどうしようかと思いました。

そこからは曲輪が連なっています。

やっとのことで上り切ると絶景が広がっています。

素晴らしいですね。

一瞬登るか迷い出石城だけ見て帰ろうかとも思いましたが、登って本当に良かったです。

10分ほど休憩しつつ景色を楽しみ、帰りは20分で降りれたので、往復1時間ほどでした。

大変でしたが、満足感のある山城でした。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 旅行ブログ 日本遺産へ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

人気ブログランキング

お城巡りランキング

お城・史跡ランキング

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする