「椎津城」27城目@日本の城 #千葉県市原市椎津

■城名
椎津城(しいづじょう)

■別名
城山

■所在地
千葉県市原市椎津字外郭他

■称号
千葉県指定文化財

■築城年
元応〜元徳年間(1325年)頃、元応〜元徳年間(1325年)頃明応年間(1492〜1501)?

■廃城年
天正18年(1590年)

■築城者
椎津三郎(椎名胤仲)

■主な城主
椎津氏、三浦氏、真里谷武田氏、里見氏、北条氏

■城郭構造
連郭式

■城分類
平山城

■縄張
千葉県市原市の南の玄関口、姉崎の八坂神社の裏手の台地に広がる椎津城は、南北約400メートル、東西約180メートル、標高28メートルで同市内でも最大級規模の城郭
椎津は豊かな穀倉地帯を臨み、武蔵・下総から上総・安房の房総に通じる房総往還道や久留里街道西往還、椎津湊を抑える水陸交通の要所であったため、この城をめぐる攻防戦が幾度となく繰り広げられました。
本丸南側には二重の空堀を構え、1の堀は、1973年(昭和48年)の発掘調査では幅14メートル、深さ4.5メートルの攻めにくく守りやすい薬研桝堀であることが判明しています。
本丸の南側には二重の空堀を隔てて約600平方メートルの平坦な二の丸に相当する「五霊台」のくびれた台地があり、南北に急崖を残しています。

この台地の北、東側を流れる境川は堀の役目を果たし、この境川沿いの現在の姉崎小学校には、江戸時代に鶴牧藩の鶴牧陣屋が置かれていました。

椎津城の東側の谷間を隔てた正坊山の台地には出城の役割を果たす外郭(正坊山城 椎津字鶴牧)があり、空堀、土塁が残ります。

■歴史
・千葉氏の一族、椎名胤仲が1325年頃の元応から元徳年間に椎津に居して椎津三郎と称して居城
・建武2年(1335年)三浦高継が椎津を所領し、応仁年間(1467-69年)に三浦定勝が築城

・明応年間(1492-1501年)に甲斐武田氏の一族の上総武田氏(真里谷氏)が上総の北方の備えとして築城

いずれにしても、康正2年(1456年)に甲斐武田氏の一族、武田信長(房総武田氏・真里谷氏の祖)が上総に上陸し、木更津市の真里谷城に本拠を構えてから、上総一体に勢力を拡大し、椎津も武田氏の勢力下に入りました。

真里谷城主武田信保(法名恕鑑、実名は信清(真里谷信清)の説あり)は、古河公方足利政氏の二男 足利義明を招請し、永正14年(1517年)10月15日、国境を争っていた原胤隆の小弓城(千葉市南生実町)を落とします。

その後、小弓城に入った足利義明は 小弓公方と称しました。

永正16年(1519年)8月19日、足利義明の兄、古河公方・足利高基は、勢力を拡大して対立する小弓公方・足利義明の重要拠点である真里谷武田氏の椎津要害(椎津城)を自ら出馬して攻撃。
これに対し、足利義明は里見氏らの軍勢で反撃し、永正17年(1520年)6月18日、足利義明は、敵城近辺の田井・横山・小沢要害・根小屋を攻略して蕨城(四街道市和良比)に帰陣した 里見義通に対し、足利高基の重要拠点である関宿城(野田市)を攻撃するよう書状を出しています。

天文3年(1534年)11月20日、武田信応は足利義明の援軍を受け、武田信隆の椎津城を包囲して攻防戦が繰り広げられました。

武田信隆、信政父子は、椎津城を船で脱出し、武田信隆は峰上城(富津市天羽中郷)、子の武田信政は造海城(つくろみ)(富津市竹岡字城山)に入城し、小田原の北条氏と手を握り足利義明に対抗しました。

天文6年(1537年)5月16日、足利義明は武田信隆の立て籠もる峰上城を攻め、5月18日には、足利義明方についた 里見義堯が造海城を攻めました。

その後5月27日、和議が成立、武田信隆は降伏して城を出、北条氏綱を頼って鎌倉に逃れ横浜市の金沢に居しました。

天文7年(1538年)10月7日、足利義明は武蔵へ進出しようと里見義堯を副将にして房総の諸将1万を率いて江戸川まで進出し、2万の北条氏綱・氏康と対峙します(第一次国府台合戦)。

天文20年(1551年)8月2日、武田信隆が病死し、2月、里見義堯は、北条方の有吉城(千葉市有吉町)を攻めたが失敗。

これに対し、北条氏康は武田信政と万喜城の土岐頼定を味方に引き入れようとしました。

武田信政は北条と結びましたが、土岐頼定は拒絶して里見氏に注進したため、里見義堯、義弘父子は、機先を制して武田信政の椎津城攻略に向かいます。

天文21年(1552年)、里見義堯は、土岐頼定、正木時茂らを従え、北進、椎津城の家老武田信常の守る久保田城を包囲します。

武田信常は後詰がなく落城必至とみて椎津城に向けて脱出しますが、笠上川付近で討死しました。

天文21年(1552年)11月4日、里見義堯、義弘は、土岐頼定(万喜城)、正木時茂(大多喜城)を先方に2千の兵で椎津城に押し寄せます。

武田一族は、この戦いに駆けつけ、笹子城の武田信清らを除き、ほとんど戦死しました。

里見義堯親子は、椎津城に兵をとどめて義堯は久留里城に、義弘は佐貫城に帰城します。

この戦で上総の国はほとんど里見義堯の手中に入りました。

里見義堯は、越後の上杉謙信の関東侵攻に呼応して、里見義弘を総大将に岩槻城主太田資正2千の軍を含め8千の兵(1万2千の説もある)を派遣し、永禄7年(1564年)1月7日、再び江戸川国府台で北条氏康、北条氏政父子の軍勢2万と対戦しました(第二次国府台合戦)。

里見義弘は緒戦の勝利に油断したところを奇襲され敗北し、安房に退却しました。

これを追った北条氏政軍は椎津城を攻め、守将木曾左馬介を敗退させます。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による北条氏の小田原征伐の際、千葉氏を始め、関東の諸将は小田原に参陣していましたが、秀吉は、空城同然の房総の各城を浅野長政に攻略させました。

この時、椎津城も落城し、城を守っていた北条の家臣、白幡六郎は敗走し、城から3キロ北東の市原市白塚まで逃げ、そこで討死にしました。

■遺構
曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸跡、虎口

■再建造物
碑、説明板

■場所

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■城巡り記録

2022年11月10日

武蔵・下総から上総・安房の房総に通じる交通の要所で、里見氏と北条氏が幾度となく攻防戦を繰り広げた場所だそうです。

事前に見た蔵波城や久保田城はこの椎津城の支城ですから、このお城がかなり重要なお城であったのでしょう。

また、信長の野望をやっていても、この椎津城は出てきます。

戦国時代に戦があった城と有名なお城のようです。

久保田城を見た後に歩いて行きました。

浅間神社の裏山が椎津城のようです。


浅間神社は立派な神社でした。


大銀杏が神社の真ん中に鎮座しています。

神社の裏に行くと畑のような場所に出て、その横井椎津城の案内がありました。


小道を抜けると一旦普通の道路に出ます。


間違ったかなと思いましたが、ちゃんと案内がありました。


坂を上っていくと鶏が放し飼いされている場所に出ます。


その隣が椎津城の入り口でした。

椎津城はしっかりと整備されています。


椎津城址の幟もあり、説明板もありました。

 
少し日が暮れてくる時間になってしまいましたが、趣のある場所です。

そこから少し下ったところに、ウッドチップでしっかりと整備された通路がぐるっと円になっていました。

城址として残っている広さはそれほど広くはありませんが、良いお城でした。

帰りは放し飼いの鶏が道路に出ていてびっくり。


でも、自分で階段を上ってみんなのところに帰っていきました。

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