■城名
吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)
■別名
郡山城
■所在地
広島県安芸高田市吉田町吉田
■称号
日本100名城
■築城年
不明
■廃城年
天正19年(1591年)
■築城者
毛利氏
■主な改修者
毛利元就、毛利輝元
■主な城主
毛利氏
■天守
不明
■天守構造
–
■城郭構造
–
■城分類
山城
■縄張
可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及びます。
城の遺構は、標高約390メートル(比高190メートル)の山頂部から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪があります。
複数の尾根(尾根ごとに多数の曲輪があるため、それぞれが小城のような造りになっている)を組み合わせた複雑な縄張りは、他の国人領主たちの城とは大きく異なる特徴です。
城の南には内堀、西には大通院谷、北の尾根には裏手の山(甲山)と区分する堀切があり、これら城域部分の総面積は7万m2に及びます。
山頂部が本丸で一段下がり二の丸、さらに三の丸と続きます。
石垣が使われたのは、本城の中枢部分である本丸から三の丸周辺までです。
■歴史
吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として毛利時親が下向したのは建武3年(1336年)ですが、宝永2年(1705年)に書かれた「高田郡村々覚書」には「時親公より以後」に吉田郡山城に住んだと記述があります。
当初の郡山城は砦程度の小規模な城で、一般的な国人領主や豪族の城と変わりなく、12代目にあたる毛利元就が入城する大永3年(1523年)までは大きな変化はありませんでした。
元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していきます。
郡山全域の城郭化が始まったのは元就の晩年と考えられており、天文9年(1540年)から翌年正月まで続いた吉田郡山城の戦いの頃はまだ拡張前でした。
ただし、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる3万の大軍を撃退したこの合戦では、農民男女を加えた8000余りが籠城したとされるので部分的な拡張が始まっていました。
拡張・整備が続けられた吉田郡山城内には、城主元就だけでなく、嫡子毛利隆元や一部の重臣たちの館も設けられたといい、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わりました。
元就の孫の毛利輝元の頃には石垣や瓦葺きなども使った近代的な城郭へと変貌します。
天守は元就時代にはありませんでしたが、見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられました。
輝元時代には三層三階の天守があったともいわれますが詳細は不明です。
天正12年(1584年)にも城の修築・城下の整備を輝元が指示しており、城下の上町を「しらかへ」にするように命じていたり、毛利氏が豊臣秀吉に従属した後に使用したと考えられる金箔瓦も出土しています。
しかし、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住しました。
■遺構
曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸
■ご城印
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■城巡り記録
2022年9月17日
かなり行きにくい場所にある日本100名城の吉田郡山城に行ってきました。
広島駅から乗り換え横川駅へ。
ここからバスなのですが、乗り場が分からず。
駅前のバス乗り場を探すも無いので、調べてみるとかなり離れた場所にありました。
刻々と出発時間が近づいてきて、バス停にギリギリついても時刻表に記載がなく、もう諦めようかと思ったら、ちゃんと目的のバスが来ました。
良かった。
そこから、1時間30分バスに揺られて、やっと到着しました。
安芸高田市役所前。
これだけ鉄道の駅から離れているのでさぞ田舎だろうと思っていたのですが、それほどでもないです。
さすが毛利家の本拠地という感じでしょうか。
少し歩いたところに安芸高田市歴史民俗博物館があります。
郡山城が100名城に選出されたことを誇りに思っています。
この博物館の裏手に見える山が郡山城です。
それほど高い山ではないのですが、木々が生い茂っています。
案内図がありますが、結構見ごたえのある山城の感じがします。
まずは博物館に寄っていきます。
大人は300円です。
受付の場所に100名城のスタンプがあります。
スタンプは受付の人に言って出してもらう感じです。
37城目。郡山城のスタンプを押印しました。
毛利元就が入城し、来年が500年という記念だそうです。
毛利家の家紋は「一文字に三つ星(一文字三星)」
最近、家紋にも少し興味を持ってきました。
郡山城の模型がありました。
木々を減らし、建物を建てた形が見れると山城だったのだなぁという気になります。
館内は主に毛利家の歴史が展示されています。
西日本最大級の戦国山城。
元就エピソードとして有名な2点も記載されていました。
石碑にもなっている「百万一心」伝説です。
百万一心と書いて、一日一力一心と読ませていたのだとか。
言われないと読めないですよね。
そして、こちらが有名な三矢の訓。
近くに石碑もあるそうです。
後の世が作り出した話だといわれていますが、毛利元就の3人の息子は皆名字が異なりますが力を合わせていたという素晴らしい話です。
小早川、吉川、毛利。
毛利を支える両川と言われていたとか、ちゃんと学んでおかないと分からないことだらけですよね。
しかし、知れば知るほど面白いです。
鎧が飾られていて、外には司馬遼太郎の石碑があります。
さて、いよいよ博物館を出て郡山城に向かいます。
出だしから結構な坂道です。
三矢の訓の碑が近くにあるそうなので寄っていきました。
こちらにありますと記載されていますが、かなり厳重なネットの門を開けていかないといけないのでためらいます。
綺麗に整備された芝生の先に石碑がありました。
こちらが三矢の訓えの碑です。
戻って少し上ると毛利元就の像があります。
いよいよ郡山城に行きます。
毛利元就の火葬場跡がすぐの場所にありました。
火葬場と言われても、特に何かあるわけではありません。
よくこのような場所も言い伝えとして残っていたなぁと思います。
そこから緩やかな坂道が続くのですが、橋や階段も整備されています。
この辺は素晴らしいですね。
内堀推定と言われている場所に階段があり、真ん中には階段上の水路が作られています。
かなりしっかりとした整備がされていて驚きです。
ここが交通の便が良ければかなりの観光客が訪れるのではないでしょうか。
景色も良いですね。
整備された橋も非常に良い感じです。
この先に鳥居があり、毛利家のお墓に向かいます。
鳥居をくぐったあたりから、一気に静寂な場所に代わります。
木々も石垣も非常に良い感じです。
観光客も全く見当たらず、非常に落ち着いた良い場所でした。
その先に毛利元就のお墓がありました。
元はお寺だったそうです。
苔むしていて素晴らしい場所です。
「国破れて山があり」、「夏草や兵どもが夢の跡」などの詩がふっと出てきます。
鎌倉時代なら奥州藤原氏かもしれませんが、戦国時代なら毛利家が合うのかもしれませんね。
まぁ滅ぼされていませんけど。
お墓の場所はさらに神聖な感じです。
こちらには説明が載っています。
萩に追いやられても、この場所が毛利家の本拠地となって残っていたのは素晴らしいですね。
墓所の近くに百万一心の石碑があります。
スタンプの絵にもなっていますね。
この後ろから登山口となっているので、登っていきます。
少しだけ石段があり整備された感じでしたが、すぐに山道になります。
途中には堀なども見れていい感じです。
このお城は尼子氏と戦った歴史もあります。
やはり山城は防御力が高いですね。
山に登るだけで疲れますし、道が分かりません。
さらに歩きづらく、滑る。
道も狭くなっているし、どこで待ち伏せされているかもわかりません。
少し攻める気持ちになって登っていきましたが、かなり厳しいです。
途中には結構深い堀もありました。
やっと上りきると、そこは御蔵屋敷跡です。
すぐ上が本丸ですが、その手前には有力武将が住んでいたのでしょう。
そこから、かなり崩れがかった階段らしきものを登ります。
この辺の道は雨の日や雨上がりの日には来たくないですね。
かなり滑りそうです。
登った場所が二の丸です。
二の丸はそれほど広くなく、山城感たっぷりです。
こちらにも昔は屋敷が建っていたのでしょう。
そしてこの先に見えるのが本丸です。
土のスロープみたいになっています。
当時はどのようになっていたのでしょうか。
この場所に物見台があればかなり遠くまで見渡せるでしょう。
中国地方の覇者はここから何を見ていたのか気になります。
毛利元就は全国制覇を成し遂げようとは思っていなかったのでしょう。
この中国地方をいかに守っていくか、考えていたのでしょうか。
それにしても山城はすごいですね。
さすがに住むには大変な場所であると思います。
ここから、今度は旧本城に向かうため別の道から降りていきます。
こちらの道もいいですね。
先ほどの道よりは整備されていますが、木の階段など趣があります。
木々の間をゆっくりと降りていきました。
途中開けたところに出ます。
街が一望できました。
さすがに多数の曲輪を備えていただけありますね。
途中に分かれ道があります。
ここから旧本城に向かうことが出来ます。
郡山城はもともとこちらをはじめ本丸として使用していたのだとか。
城の拡大で、より標高の高い現在の本丸の方に異動したようです。
この旧本城とは尾根が違っており、堀切でもきっちり切られています。
道もかなり狭く山道という感じが強いです。
こちらの方に足を運ぶ人は少ないのかもしれません。
堀切は現在でもかなりの深さです。
あまりにも人がいないので、少しドキドキしてきました。
細い山道を進んでいきます。
あまり人が通っていない感じの道になりました。
さらに少し土が滑るし、傾斜がきつくなるしで転びそう。
何とか本城の曲輪に到着です。
ここから一段上がると旧本城の本丸に到着します。
本丸には案内板がありました。
現在の本丸に移った後は、こちらの旧本城は隆元が居住していたそうです。
こちらもなかなかいい場所ですね。
ザ・山城という感じです。
帰りも木々の間の道を抜けて進みます。
下りよりも登りの方が安定しますね。
分かれ道まで戻り、お寺の方に向かって降りていきます。
途中に展望台がありました。
二階に上がれるので登ってみると、毛利家の家紋がつるされていました。
ゆっくりと降りていくと興禅寺跡に到着しました。
落ち着いた佇まいの良い場所ですね。
NHKの大河ドラマで毛利元就がやっていたのですね。
一度見てみたくなりました。
やっと下に到着しました。
非常に満喫できる山城でした。
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