■城名
岡崎城
■所在地
三河国岡崎藩(現・愛知県岡崎市康生町)
■称号
日本100名城
■別名
龍城
■築城年
享徳元年(1452年)
■廃城年
明治6年(1873年)
■築城者
西郷稠頼・頼嗣(三河国守護仁木氏の守護代)
■主な改修者
松平清康、田中吉政、本多忠利
■主な城主
西郷氏、松平氏、田中氏、本多氏、水野氏
■天守
再建天守
■天守構造
複合連結式望楼型3重3階(1617年築・非現存)
復興(1959年(昭和34年)再・RC造)”
■城郭構造
梯郭式
■城分類
平山城
■縄張り
菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られています。
元は、龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼、その子頼嗣(よりつぐ)が北方に対する防御として築城したものです。
当時は、龍燈山城(りゅうとうざんじょう)と呼んでいました。
それを、松平清康が西郷信貞(松平昌安)から奪い取り改修拡張整備したものが岡崎城です。
龍頭山はもともと小高い丘で、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていましたが、本多康重から3代忠利(1600年(慶長5年) – 1645年(正保2年))にわたる改修によって平城となっています。
この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が建てられました。
本丸の北方に持仏堂曲輪、その北方下に二の丸、その北方に北曲輪、二の丸の東側には三ノ丸と東曲輪、その東に備前曲輪と大手門があった浄瑠璃曲輪、本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、その西に白山曲輪と搦手口に当たる稗田門があった稗田曲輪、本丸の南は、菅生川沿いに菅生曲輪があり、それに、本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を廻らせています。
■歴史
1452年(享徳元年)または1455年(康正元年):龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。
15世紀後半(文明年間初め):松平氏3代松平信光が城主西郷頼嗣を破り、西郷氏娘婿となった五男松平光重が城主となり岡崎松平家が成立。
1531年(享禄4年):岡崎松平家を破った松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが家臣の謀反により命を落とす(森山崩れ)。
1542年(天文11年):城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。当時、櫓や門の屋根も茅葺で、当地は石の産地ながら石垣などもなく、ただ堀を掘ったその土をかきあげて、芝を植えただけの土塁がめぐっていました。
1549年(天文18年):松平広忠が家臣の謀反によって殺害されると、岡崎城は今川家の支城として城代が置かれ、山田景隆、三浦義保、糟谷備前らが城代を務めました。
1560年(永禄3年):桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、松平元康(後に家康、徳川へ改姓)は岡崎城を取り戻し、今川家から独立します。
1570年(元亀元年):徳川家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信康が入ります。
しかし、信康は謀反の疑いをかけられて自刃。以後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めました。
1590年(天正18年):家康が関東に移封となると、豊臣家臣の田中吉政が入ります。
家康に対する抑えの拠点の一つとして、吉政は城を拡張し、強固な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備しました。
また、城下町の整備も積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道に整備され、現在の岡崎城の原型を造りました。
1602年(慶長7年):徳川氏譜代の重臣である本多康重が上野国白井より5万石で入城。
以降、徳川政権下では家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代の城主を務めています。
1617年(元和3年):3重の天守が完成しました。
1644年(正保元年):岡崎藩主の本多忠利が石垣を完成しました。
近現代
1869年(明治2年):本多忠直が城主となります
■見どころ
(遺構) 石垣、堀
(再建造物) 天守、門
■ご城印
■場所
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■城巡り記録
2023年8月21日
徳川家康が産まれたお城です。
今回の家康お城巡りの中でも中心となるお城ですね。
龍城とも言って非常に演技の良いお城ですので、せっかくなのでご城印帳も購入しました。
真っ赤で良い感じです。
東岡崎駅で降りて歩いて行きました。
お城の前の乙川を上っていくと岡崎城があります。
岡崎城だ徐々に大きく見えるようになってきました。
岡崎城手前のお堀は龍城堀というそうです。
そして真っ赤な神橋を渡ってお城に向かいます。
お堀の先には野面積の石垣があります。
所々が苔むしていてよい感じです。
階段をゆっくり上り、天守の前にある龍城神社でお参り。
そして、天守に入ります。
どうする家康効果で、結構混んでいるかと思ったのですが、さほどでもなく。
さすがに真夏には来ないかな。
岡崎城や家康の歴史を学びます。
本当に徳川家康は多くの困難な経験があったことが分かります。
最上階からの景色をみて、降りようと思ったら、浮世絵摺り体験が出来るとの事で、少し並んで試してみました。
スタンプを重ね押しするだけなんですけど、なんか楽しいですね。
一旦外に出ます。
店主の隣には家康公遺言が石碑になっていました。
『わが命旦夕に迫るといへども、将軍斯くおはしませば、天下のこと心安し
されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、艱難することあらんには、たれにても其の任に代らるべし
天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし』
裏手に周りドラマ館の方へ向かいます。
こちらのお堀は空堀ですが、かなり深く掘られています。
家康の銅像もあります。
銅像はいろいろな場所にあり、その姿も様々です。
そして、ドラマ館へ。
どうする家康がやっている間でないと入れませんので、せっかくなので立ち寄りました。
まずは、ドラマに出てきた金の甲冑。
すごいですね。目立ちすぎます。
そして徳川家康の遺訓も記載されています。
こちらは有名ですよね。
『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。』
せっかくなので、現代訳にしてみました。
『人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。
足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。』
そしてドラマに出演した人たちの紹介もありました。
やはり豊臣秀吉役のムロツヨシが独特な雰囲気を出していますよね。
そして大手門。
ドラマ館がある方が裏手かと思ったのですが、こちらが表なんですね。
そしてまた店主の方に戻ります。
青海堀と石垣。
いやぁ石垣の苔が本当に見事です。
家康出生のお城、岡崎城を堪能しました。
岡崎城ではお土産としてご城印帳などのほかに、息子は扇子を購入しました。
私は孫の手です。
徳川の家紋が入って、手の部分が鉄でしっかりかけるので非常に重宝しています。
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