2019年8月10日
■城名
上田城
■所在地
長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)
■称号
日本100名城
■別名
尼ヶ淵城
■築城年
1583年(天正11年)
■築城者
真田昌幸
■主な改修者
■主な城主
真田氏、仙石氏、松平氏
■天守
天守があったのかを確認できる資料はない。
■天守構造
不明
■城郭構造
梯郭式
■城分類
平城
■縄張り
上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。
北に太郎山、南に千曲川があり、築城前は土豪小泉氏の古い城館が存在した。
城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込んで総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。
上田城は末期、信濃国小県の真田本城主の真田昌幸が真田氏当主であった1583年(天正11年)に築城された平城
現在残っている城は、仙石忠政によって江戸時代初期の寛永年間に再建築城されたもの
本丸を南側に置き、二の丸が本丸の北・東・西を囲み、二の丸と東の大手門の間に三の丸を置く、梯郭式といわれる縄張りとなっている。これは千曲川に接する断崖となっていた南側が最も天然の防御力が強く、当初は天正壬午の乱において後北条氏による上州方面からの、上杉氏による越後方面からの攻撃に対するものであった。翌1584年に真田氏が徳川氏と断交したため、当初は越後方面に予定していた大手(防御正面)を対徳川を想定して東側に変更した。
通常は本丸や二の丸など城の中心に置かれる政務用の建物が、三の丸に置かれているのが特徴である。これは、真田信幸が上田領を継承した際に、上田城は破却されており、城下町に近い三の丸跡地に居館を建てたことに始まる。その後、上田城は仙石氏により再建されたが、不完全なまま終わっている。真田昌幸時代の上田城について正確な構造は、わかっていない。なお、堀底の発掘調査により、真田氏時代と想定される金箔瓦や、菊花文軒丸瓦、金箔鯱の破片などが出土している
■歴史
上田を含む信濃国は、支配していた武田勝頼を甲州征伐で滅ぼした織田信長が本能寺の変で横死した後、天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が行われた。
甲州征伐で生き残った真田昌幸は、臣従する相手を次々変えたうえに徳川家康についたが、天正壬午の乱の戦後処理を巡り対立。1585年(天正13年)の第一次上田合戦で攻め寄せた徳川軍を撃退した。
その後に天下人となった豊臣秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦い(慶長5年)で西軍についた真田昌幸は、連動する第二次上田合戦でも東軍別動隊の徳川秀忠軍をよく防いだ。
本戦で西軍が敗れたため、昌幸は紀伊国の九度山に配流され、翌1601年に上田城は徳川軍に徹底的に破却され、堀も埋められた。
昌幸の嫡子である真田信之は関ヶ原の戦いで東軍についたため、上田など真田領を安堵されたが、上田城が破却されていたため元々の居城である上野国沼田城を本城とし、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて統治を行った。
真田信之は江戸幕府に対して元和7年(1621年)に城の再整備・拡張を申請するが却下され、元和8年(1622年)9月には信濃国松代へ転封された。
小諸藩より仙石氏が移封された。仙石忠政は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請されることとなった。
真田氏時代の縄張りをも利用していると推測されているが、徹底破却の後に近世城郭として新たに築城された。
■見どころ
(遺構)櫓、石垣、土塁、堀
(再建)門
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真田の本拠地である上田城に行きました。
駅を降りてすぐ真田幸村の像が出迎えてくれます。
駅前には大きな水車もありました。長野といえば蕎麦、蕎麦といえば水車でしょうか。よく分かりません。
上田城に行く前に少し上田藩主屋敷跡によります。
駅から緩やかな坂道が続いています。
屋敷跡は非常に立派な門と堀があります。
現在この場所は上田高校となっています。高校がすっぽり収まる大きさの屋敷とはすごいですね。
上田城には二の丸橋の方から入りました。
橋の下は整備された通路になっています。
スタンプは二の丸橋を渡ってすぐ右にある上田市立博物館別館に置いてあります。
ここで上田城のパンフレットとかももらえました。
本丸に入る前にぐるっと廻ります。
本丸土塁の隅欠を見ました。
北東の方位は鬼門とされ、北東の角を失くすためにへこんだ状態になっているそうです。
西側から本丸に入ります。
石垣が積まれており、堅牢な作りがうかがえました。
本丸の中をぐるっと一周し、東側の櫓門の方へ行きました。
櫓門の中は見学できるようになっています。
せっかくなので見学してきました。
南側は切り立った崖となっており、景色が非常に良いです。
櫓の中は各種展示物があります。
真田好きにはたまりませんね。
奥で上田城の歴史をプロジェクタで上映していました。
徳川家康との幾度の戦に耐え抜いた実践の城として讃えていました。
たしかに非常に堅牢な縄張りだと思います。
火縄銃を触れる展示もありました。
櫓の鉄砲狭間から狙っていたであろう当時の情景をはせながら体験できるということで、当然やってみました。
門の外が見やすく、これなら敵を狙いやすそうです。
門を出たところには上田城の観光スポットとなる真田石がありました。
たしかに大きな石です。
この大きさはなかなか写真では伝わりづらいですね。
さすがは徳川家康・秀忠を苦しめた堅牢なお城です。
歴史の重さを感じました。
帰りはしっかり整備されている堀の場所を歩くことにしました。
橋の下にはベンチまで用意されています。
削って崖になったような場所も多数ありました。
そのまま進むと南側に出ます。
開けた広場になっており、先ほどの櫓門との高低差を楽しめました。
このような丘陵地に作るのもなかなか縄張りとして良いですね。
非常に良いお城でした。