
■城名
白石城(しろいしじょう)
■別名
益岡城、枡岡城
■所在地
宮城県白石市益岡町
■見ごたえ
★★★★★
■称号
続日本100名城
■築城年
鎌倉時代
■廃城年
明治8年(1875)
■築城者
白石氏
■主な改修者
蒲生郷成
■主な城主
白石氏、蒲生氏、上杉氏、片倉氏
■天守
木造復元天守
■天守構造
複合式層塔型大櫓[3重3階/1602年築/焼失(火災)]
複合式層塔型大櫓[3重3階/1823年再/破却]
複合式層塔型大櫓[3重3階/1995年再/木造復元]
■城郭構造
梯郭式
■城分類
平山城
■遺構
曲輪、石垣、移築門、移築蔵
■再建造物
櫓、門、塀
■歴史(ChatGPTより)
白石城は、宮城県白石市に所在する平山城で、別名を益岡城(枡岡城)という。奥羽山脈と阿武隈高地に囲まれた白石盆地の独立丘陵北端、標高約76メートルの地点に築かれ、市街地との比高は約20メートルを測る。北方約1キロには白石川が流れ、近世には城下を奥州街道が南北に貫き、仙台・福島・江戸を結ぶ交通の要衝であった。さらに米沢や相馬へ通じる街道も分岐し、軍事・経済の両面で重要な位置を占めていた。
城の創建時期は明確でないが、中世には刈田氏(のち白石氏)が居館を構えたと伝わる。戦国末期、豊臣秀吉の奥州仕置により刈田郡は蒲生氏郷の領地となり、家臣蒲生郷成が入城して近世城郭へ改修し、益岡城と称したとされる。その後、上杉景勝の家臣甘糟景継が城主となるが、慶長5年(1600年)の会津征伐で伊達政宗が攻め、守将登坂勝乃が降伏。以後は伊達領となった。やがて片倉景綱が入城し1万8千石を領有、以後明治維新まで片倉氏十代の居城として続いた。
江戸幕府の一国一城令(1615年)では通常、各藩一城のみが認められたが、仙台藩では仙台城に加え白石城の存続が特例として許された。これは藩政上の要地であったことと、支城としての性格によると考えられる。本丸には天守の代用である三階櫓(大櫓)が建ち、藩の格式と幕府への配慮から「天守」とは称さなかった。城域は拡張を重ね、最終的に六丸五曲輪から成る構成となり、本丸石垣や土塁が防御を固めていた。厩口門や東口門などはのちに市内寺院へ移築され、往時を伝えている。
幕末の戊辰戦争では、白石城で白石列藩会議が開かれ、奥羽越列藩同盟結成へとつながった。城内には公議府が置かれ、北白川宮能久親王も滞在したが、仙台藩の降伏により明け渡された。明治初年には南部利恭が白石藩主として入るも短期間で去り、のちに廃城・解体された。城跡は益岡公園として整備される。
平成期に入り、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』放送を契機に復元機運が高まり、1995年に三階櫓や大手門などが木造復元された。続日本100名城にも選定され、観光拠点となっている。しかし2011年の東日本大震災や2021年・2022年の福島県沖地震で大きな被害を受け、その都度修復が行われた。近年は天守での宿泊体験「城泊」も実施され、歴史文化の発信拠点として新たな活用が模索されている。
また、片倉景綱入城後に怪異が起こり、狐を祀る社を建てて鎮めたという伝承も残る。白石城は、中世以来の変遷と近世大名支城の姿、そして近現代の復元と保存の歩みを今に伝える、東北を代表する城郭遺構である。
■ご城印
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■場所
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■城巡り記録
2026年2月16日

