「大内氏館・高嶺城」35城目@続100名城 #山口県

■城名
大内氏城館(おおうちしじょうかん)

■別名
大内氏城館[大内館・築山館・高嶺城]

■所在地
山口県山口市大殿大路他

■見ごたえ
★★★

■築城年
“14世紀中期〜15世紀中期[大内館]
室町時代[築山館]
弘治2年(1556)[高嶺城]

■廃城年
弘治3年(1557)[大内館・築山館]
寛永15年(1638)[高嶺城]

■築城者
大内弘世[大内館]
大内教弘[築山館]
大内義長、毛利元就[高嶺城]

■主な城主
大内氏

■城分類
城館遺跡群

■遺構
土塁[大内館・築山館]
曲輪、横堀(空堀)、石垣、井戸[高嶺城]

■再建造物
西門、空堀、土塁[大内氏館]

■指定文化財
国史跡(大内氏遺跡)

■歴史(ChatGPTより)
山口市に残る「大内氏館跡(おおうちしやかたあと)」は、室町から戦国時代にかけて西国一の大名と称された大内氏の本拠地であり、山口の都市形成の中心となった場所です。館は現在の山口市中心部、龍福寺の境内を中心とする一帯に位置しており、国の史跡に指定されています。

大内氏は周防国(山口県)を本拠とする豪族で、平安時代末期に勃興し、中世には中国・北九州地方に勢力を広げました。特に大内義弘・義興・義隆の時代には「西国の覇者」と呼ばれるほどの力を持ち、室町幕府においても管領に次ぐ地位に就くなど、全国的な影響力を誇りました。

その本拠地である大内氏館は、14世紀末に築かれたとされます。一般的な山城とは異なり、平地に構えられた館でありながら、高い石垣や堀で守られた城郭的な構造を持っていました。中心部には主殿があり、その周囲には政庁や家臣団の屋敷が立ち並びました。大内氏は館を中心に城下町を整備し、京都を模した町割りを導入しました。碁盤目状の街路や寺院の配置など、都風の文化的都市が形成され、山口は「西の京」と呼ばれるようになりました。

また、大内氏は文化人としても知られています。大内義弘の時代から南宋・明との貿易を盛んに行い、中国文化を積極的に取り入れました。さらに大内義興は京から多くの公家・文化人を招き、連歌や能楽、禅宗文化を育みました。義隆の時代には雪舟や陶芸家・狩野派絵師らが活動し、山口は一大文化拠点として栄えました。大内氏館はその中心として、政治と文化の舞台であったのです。

しかし、その栄華も永くは続きませんでした。1551年、大内義隆は家臣・陶晴賢の謀反(大寧寺の変)によって滅ぼされ、大内氏は事実上断絶します。その後、大内氏館も利用されなくなり、荒廃していきました。現在は館跡の一角に大内義隆の菩提を弔うために建立された龍福寺が建ち、かつての壮大な館の姿をしのぶことができます。

発掘調査によって、館跡からは石垣、礎石建物、庭園跡などが確認されています。また、京風の瓦や陶磁器、中国から輸入された青磁・白磁なども出土しており、大内氏がいかに国際的な文化を取り入れていたかを示しています。

■ご城印

■場所

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■城巡り記録

2025年8月9日

続日本100名城に選定されている大内氏館跡。

現在は龍福寺というお寺になっています。

ご城印や続100名城スタンプは近くにある大路ロビーという観光案内所にあります。

案内の人にいろいろと話を伺えます。

山口の人は郷土愛が強い人が多くて素晴らしいと思いました。

その後は大内氏館跡へ。

残念ながら遺構はほとんどないそうです。

発掘調査にて、竈跡などの場所が示されています。


龍福寺の資料館前には大内義興の馬上像がりりしく建っています。

外を回ると再建された西門があります。


そして、空堀と土塁も一部再建されています。

お城跡よりも大内氏の文化を学ぶのが良さそうでした。

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