■城名
篠山城(ささやまじょう)
■別名
桐ヶ城
■所在地
兵庫県丹波篠山市北新町
■見ごたえ
★★★★
■築城年
慶長14年(1609)
■廃城年
明治4年(1871)
■築城者
徳川家康
■主な城主
松平氏、青山氏
■天守
なし
■城郭構造
輪郭式
■城分類
平山城
■遺構
曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)
■再建造物
大書院、石碑、説明板
■指定文化財
国史跡
■歴史
篠山城(ささやまじょう)は、兵庫県丹波篠山市に位置する平山城で、江戸時代初期の1609年(慶長14年)、徳川家康の命により築城されました。関ヶ原の戦いを経て、徳川幕府の支配体制が固まりつつあった中で、家康は西国の外様大名を牽制するため、要地に譜代大名を配置し、重要拠点の整備を進めます。篠山城もその一環で、豊臣恩顧の大名が多く割拠する西国諸藩に睨みを利かせる軍略的城郭として築かれたのです。
築城にあたっては、天下普請と呼ばれる幕府主導の共同事業として行われ、加藤清正、池田輝政、藤堂高虎といった名将・築城の名人たちが普請奉行として動員されました。特に縄張(設計)には藤堂高虎が深く関わり、その機能美あふれる城郭構成が今も高く評価されています。築城には全国からの大名が動員され、わずか半年ほどで本丸・二の丸・三の丸などの主要部分が完成しました。
篠山城の最大の特徴は、天守を持たなかった点です。これはあえて幕府への謀反の意図がないことを示すためとされ、政治的配慮から天守閣の建設が禁止されたと考えられています。その代わりに、巨大な石垣と深い堀、堅牢な櫓門が設けられ、堅固な防衛機能を備えました。とくに本丸の高石垣や、枡形虎口の複雑な導線は、実戦を意識した構造といえます。
初代藩主には松平康重が任じられ、以後篠山藩として幕末まで続きます。松平氏の後、青山氏など数家が入れ替わりながら統治し、最終的には青山家が10代にわたり居城しました。城下町も計画的に整備され、碁盤目状の街路と武家屋敷、商家町、寺町などが形成され、現在に至る町並みの基盤が築かれました。
篠山城は、江戸時代を通じて戦が起こることなく、行政・政治の中心として用いられました。明治維新後の廃城令により建物の多くは破却されましたが、本丸跡や石垣、堀の遺構が良好に残り、1990年代には大書院が復元されました。この大書院は藩主が政務を行い、公式行事を執り行った格式高い建物であり、現在は篠山城跡大書院として一般公開され、城の歴史や建築技術を伝えています。
また、篠山城跡は国の史跡に指定され、周囲には伝統的な町並みが残る「篠山城下町」として観光資源となっており、毎年多くの観光客が訪れます。近年では「丹波篠山」としての地域ブランド化も進み、城とその歴史文化が再評価されています。
篠山城は、軍事的機能と政治的配慮が共存する稀有な城郭であり、その設計思想や築城過程は、江戸初期の幕藩体制確立における象徴といえます。その壮麗さと機能美、そして城下町と一体となった景観は、現代においても日本の城郭文化の奥深さを体感させてくれる貴重な存在です。
■ご城印
■場所
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■城巡り記録
2025年7月12日
日本100名城の一つ、篠山城に行ってきました。
関ヶ原の合戦の後、徳川家康がまだ大阪城に残る豊臣氏を包囲するために天下普請として築かせたお城です。
藤堂高虎が縄張りを担当し、池田輝政が普請奉行を行うなど天下人の力を見せつけています。
現存は石垣などですが、2000年に大書院が復元されています。
ものすごい大きな建物ですね。
中には甲冑などが置かれていますが、見学するには少し物足りない感じ。入館料はこの復元費の補填だと思えば仕方なしですね。
それにしても半年で作られたお城とのことですが、石垣が見事です。
ここまでの石垣を各所から運んでくるなど並大抵のことではないですよね。
各大名が競って運び、周りの田畑を無視して石を引きずったそうです。
現代の重機を使っても、これほど早く作れないと思います。
外堀には蓮の花が咲いていました。
まだ少しだけでしたが、綺麗でした。
お城に蓮がよく似合いますね。
良いお城でした。
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