■城名
蔵波城(くらなみじょう)
■別名
-
■所在地
千葉県袖ケ浦市蔵波
■称号
■築城年
天文年間(1538年~1551年頃)
■廃城年
天正18年(1590年)
■築城者
武田信政(真里谷信政)
■主な城主
真里谷氏、里見氏、北条氏
■城分類
平山城
■縄張
“JR内房線長浦駅前の県道を隔てた東南高台地の山稜にあり、市原市椎津にある椎津城の出城の1つです。
東南西の3面が険しく西側が東京湾に面した山稜に築かれていましたが、今は海側は埋め立てられ、山稜も宅地造成のため取り除かれてしまい平坦地になっています。
城域の規模は、南北約150メートル、東西約120メートル、標高30メートルです。
縄張りの前面には密蔵院があって、荒野の面影をわずかに残しています。
寺の前面には蔵波川が流れて海に注ぎ、水堀となって城の正面となしていることは久保田城と同様です。
海岸に沿って南西約5.5キロメートルのところに小櫃川が流れ、里見氏に対する防衛としての要害をなしています。
■歴史
久保田城と同様、椎津城(市原市椎津)の背後固めとして、武田信政(真里谷信政)が天文年間(1538年~1551年に築城したと考えられます。
また、蔵波城は、里見義堯が築城し近藤大膳綱利に守らせましたが、北条氏により落城し、綱利は討死したとの言い伝えもあります。
天文21年(1552年)11月4日の椎津合戦により、椎津城の武田信政が里見義堯、里見義弘に敗れた際、蔵波城も里見方に落ちたと思われます。
その後、椎津城は里見氏と北条氏により争奪が繰り返されましたが、天正期は椎津城や久保田城は北条氏の支配下となり、北条氏は里見支配領域との境目を押さえた重要な城として、原氏や高城氏、酒井氏といった有力武将たちに交代で城番を命じています。
この時、蔵波城がすでに廃城になっていたのか、北条氏の城番が置かれていたのかは定かではありませんが、いずれにせよ天正18年(1590年)の豊臣秀吉による北条氏の小田原征伐の際、椎津城や久保田城とともに、豊臣方の手に落ちたと考えられます。
■場所
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■城巡り記録
2022年11月10日
長浦駅を降りるとすぐ目の前に丘が見えます。
この丘の上が蔵波城のようです。
このJR長浦駅ですが、結構しっかりとした駅になっています。あまり乗降客は多そうではないのですが、どうしたのでしょうか。
駅を降りて登る場所を探しましたが、駅近くからお城に行ける場所はありませんでした。
ここかなという階段があって登ってみたのですが、お墓でした。
少し回ってみると蔵波八幡神社があり、こちらから登るようです。
神社は境内もしっかり整備されており立派です。
神社の右手に整備された道があり、そこを上っていきます。
しっかりと砂利がひかれ、階段が整備されているので上りやすいですね。
すぐに上まで行くことが出来ました。
上の郭には蔵波城址の看板がしっかりと立ててありました。
築城者は不明ながら、椎津城の支城であり、里見家と北条家が争った海城だったようです。
重要なお城だったんですね。
こちらから港を見渡すことが出来ます。
丘の上には小さな社もありいい雰囲気でした。
良い城跡ですので、今後も残していってもらいたいです。
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