■城名
備中高松城
■別名
高松城
■所在地
備中国賀陽郡中島村高松 (現・岡山県岡山市北区高松)
■称号
続日本100名城、日本三大水攻め城
■築城年
不明
■廃城年
江戸時代初期
■築城者
石川氏
■主な改修者
■主な城主
石川氏、清水氏、花房氏
■天守
-
■天守構造
-
■城郭構造
梯郭式
■城分類
平城
■縄張
城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁によって築城されています。
城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀を形成していました。
■歴史
築城時期ははっきりしないが、松山城を本拠に備中一円を治めていた戦国大名三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城です。
天正3年(1575年)の備中兵乱で石川氏が主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となりました。
清水宗治は備中兵乱の際、石川氏の娘婿・重臣でありながら主家を離れて毛利氏に加担しましたが、清水宗治が城主となった経緯は不詳です。
天正10年(1582年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻め(備中高松城の戦い)にかかります。
5月8日(5月29日)に入り黒田孝高の献策により城を堰堤で囲む土木工事が開始されました。
これにより低湿地にあった高松城を水没させるというものです。(世に言う「高松城水攻め」)
人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成しました。
折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ、城は水没します
ここに信長を招く準備をしていましたが、6月2日(6月21日)、本能寺の変が起こり計画は頓挫しました。
翌日、光秀の毛利軍への密使を秀吉軍が拘束。
密書で信長の死を知った秀吉軍は毛利軍に知られぬよう密使を暗殺してこれを秘匿し毛利方の軍使・安国寺恵瓊を仲介役に和議を成立させます。
城兵の命と引き替えに4日(23日)、宗治は切腹。
秀吉は主君の仇敵・明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返し、明智光秀と対決しました。
■遺構
水攻め堰堤の一部、石積みの一部
■再建造物
■ご城印
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■城巡り記録
2022年1月15日
あさから備中松山城、鬼ノ城と立て続けにいって、本日3城目。
さすがに疲れました。
備中高松駅を降りて、少し歩いたら到着です。
やはり駅前のお城はいいですね。しかも平城は楽です。
お城は公園としてしっかり整備されています。
全体的に人はまばらですが、のどかな雰囲気の良い公園です。
備中高松城の説明もしっかりと記載されていました。
駅から行った場合最初は三の丸跡でした。
ここには当時の布陣図が置かれていました。
布陣図によると備中高松城は清水宗治がいましたが、その周りにも毛利方の7城があり、さらに救援に毛利方の小早川隆景と吉川元春も陣を敷いていたようです。
豊臣方の羽柴秀吉、黒田官兵衛と対峙している壮大な戦場のようですね。
それにしてもこんな平城あっという間に落ちたのではないでしょうか。
そう思うのは今の景色を見ているからなのでしょう。
今はアスファルトに囲まれたしっかりした道が多くあるので普通の土地に見えるのですが、当時は一面が沼だったようです。
沼城とも言われていて、馬も兵も城に近づくことが出来ない場所でした。
「水攻音頭」なるものもありました。
ええっ、これは何なのという感じですね。
水攻めがあった歴史を伝えるために作ったのでしょうか。
そして、歴史資料館に到着です。
入館は無料なのですが、15時までしかやっていないため急いでこないといけないところが難点です。
館内入り口に置いてあるスタンプを早速押しました。
館内には地図を中心に水攻めの内容がいろいろと説明されています。
清水宗治は、最初に秀吉から降伏すれば備中・備後2カ国を与えるという条件を出されたが応じず、信長からの誓詞をそのまま主君・毛利輝元のもとに届けて忠義を示したそうです。
それにより、水攻め後に城兵を助けるべく毛利方から講和の申し入れをし、「城兵の安全と中国5か国の譲渡」条件としましたが、清水宗治の切腹にこだわった秀吉はこれを拒否しました。
忠臣を秀吉が恐れたのかもしれません。
秀吉の方は約3万人におよぶ大軍だったようで、堅牢といえどもいつまでも持たなかったでしょう。
死を覚悟した清水宗治と備中高松城の城兵。
やはり恐ろしいですね。
それにしてもこんな場所に本当に水たまるものでしょうか。
溜まってもある程度の土地があれば全然余裕ではないかなぁと思います。
と思っていたのですが、館内に水害に遭った際の写真がありました。
写真を見る限りですと、ものすごい水です。
土地を見て、この状況を予想できるとはすごいですね。
当時からもしかしたら度々水害に遭っている場所で、官兵衛が近隣の農民等に話を聞いて策を練ったのかもしれません。
二の丸跡
そして沼です。
橋を渡ると本丸です。
今は冬なので蓮は綺麗に観れませんでしたが、夏は蓮の花が綺麗に咲くようです。
本丸跡には清水宗治の辞世の句が石碑になっていました。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して。」
清水宗治の首塚です。
秀吉から武士の鑑として称賛され、丁重に葬られたそうです。
そんな兵どもが夢の跡。
なんとなく、もの悲しくなるような場所でした。
高松城を後にして、少し歩いた場所にお寺があり、そこには自刃の地として案内がされていました。
小舟に乗って、船の上で切腹したとのことですので、この場所は水につかっていたのでしょう。
帰りは駅から見えていた大きな鳥居が気になったので、そちらに周ってみました。
高さが27mもある最上稲荷の大鳥居らしいです。
しかし、下に道が通っていて、車が走っているのがなんとも言えないですね・・・。
なぜこの場所に築いたのか気になるところです。
そんなこんなで備中高松城。
場所的な見ごたえは少ないのですが、歴史を知ったうえで見ると感慨深いものがあると思いました。
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