「岩槻城」97城目@日本の城 #埼玉県さいたま市

■城名
岩槻城(いわつきじょう)

■別名
岩付城、白鶴城、浮城

■所在地
埼玉県さいたま市岩槻区太田

■見ごたえ
★★★

■築城年
文明10年(1478)

■廃城年
明治4年(1871)

■築城者
成田正等

■主な改修者
北条氏

■主な城主
成田氏、太田氏、後北条氏、大岡氏

■天守
不明

■城分類
平城

■遺構
門、曲輪、土塁、横堀(空堀)

■歴史
●鎌倉時代以前
『新編武蔵風土記稿』によると、岩槻の弥勒寺にある寛元4年(1246年)の鐘銘に「岩付」の名が刻まれており、この頃にはすでに岩付城が存在していたと推測されています。

●室町時代
『鎌倉大草紙』によれば、1457年(長禄元年)、扇谷上杉持朝が家臣の太田道真・道灌父子と共に、古河公方・足利成氏に対抗するため、江戸城・河越城とともに築城したとされています。その後、永正7年(1509年)には古河公方の奉公衆・渋江氏が城主となったと考えられています。

●戦国時代
1522年(大永2年)、太田資頼が岩槻城を奪取し、以降岩付太田氏の居城となりました。1546年(天文15年)の河越夜戦後も、城主・太田資正(三楽斎)は北条氏に抵抗しましたが、1564年(永禄7年)、嫡子・氏資が北条氏康に内応し、資正を追放。岩付城は後北条氏の支配下に入りました。1567年(永禄10年)、氏資の戦死後、城は北条直轄領となり、1580年(天正8年)には北条氏直の弟・源五郎が、1585年(天正13年)には弟・氏房が城主となりました。
1590年(天正18年)の小田原征伐では、氏房が小田原城に詰めたため、宿老・伊達房実が2000の兵で籠城しましたが、浅野長吉率いる2万の軍勢に攻められ、1000余の犠牲を出して降伏・落城しました。

●江戸時代
徳川家康の関東入封後、高力清長が2万石で城主となり、以降、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・松平氏・小笠原氏・永井氏など譜代大名が居城としました。江戸中期には大岡忠光が入り、大岡氏の居城として幕末まで存続しました。天守はなく、本丸に天守代用の二層二階の瓦櫓や二重櫓、櫛形櫓がありました。

●明治時代以降
岩槻城は廃城となり、本丸跡は住宅地化されました。現在、城址公園には黒門や裏門が移築されており、1988年には本丸の地名が正式に成立しました。

■ご城印

■場所

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■城巡り記録

2025年1月30日

行きたかった岩槻城にやっと行くことが出来ました。

岩槻城の遺構で城門が残っています。

城址の説明がしっかりと記載されています。

この辺はもとは沼だったようですね。

そして、岩槻城として残っている場所は新曲輪と言われている場所で本丸からは結構離れています。

残念ながら本丸は住宅地になっているそうです。

そんな岩槻城ですが、立派な公園です。

大きな池があり、噴水もあり、そして赤い立派な橋が架かっています。

ご城印は少し離れた場所にある本屋さんに置かれているので立ち寄りました。

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