■城名
石垣山城(いしがきやまじょう)
■別名
石垣山一夜城
■所在地
神奈川県小田原市早川
■見ごたえ
★★★★★
■称号
続日本100名城
■築城年
天正18年(1590年)
■廃城年
天正18年(1590年)
■築城者
豊臣秀吉
■主な改修者
なし
■主な城主
豊臣氏
■天守
非現存
■城郭構造
梯郭式
■城分類
山城
■歴史
神奈川県小田原市にある戦国時代末期の山城で、豊臣秀吉が1590年(天正18年)の小田原征伐の際に築いたことで知られます。標高約260メートルの笠懸山に位置し、小田原城を見下ろす絶好の場所に築かれ、秀吉の軍事的かつ心理的な戦術の象徴となりました。
築城の背景
豊臣秀吉は、関東を支配する北条氏を討つために約20万の大軍を率いて小田原城を包囲しました。その際、長期戦を想定しつつ、北条氏の士気を削ぐために石垣山城を築城しました。「一夜城」という異名は、城が急ピッチで建設され、ある日突然現れたように見えたことから来ています。この伝説的な逸話は、城を隠すために木を伐採せず、完成直前に一斉に伐り倒したことで、完成した城が突如現れたように見えたためと言われています。
城の構造
石垣山城は、日本の城郭で初めて本格的な石垣を採用した城としても注目されています。主要部分には大きな石を用いた堅牢な石垣が築かれ、四層構造の天守が設置されていました。天守や御殿、茶室などの豪華な施設も備えられ、秀吉の権威を示す城としての役割も果たしました。さらに、小田原城を見渡せる立地に加え、富士山や相模湾も望める景勝地としても知られました。
戦術的役割
石垣山城は、北条氏に対する心理戦の重要な拠点でした。小田原城の篭城戦中、秀吉は石垣山城から直接北条氏を威圧し、戦いを有利に進めました。特に、城内では茶会や饗宴が頻繁に開かれ、長期戦にもかかわらず豊臣軍の士気が高かったことを北条側に見せつけました。こうした圧力が最終的に北条氏の降伏につながったと言われています。
戦後と現在
北条氏の降伏後、石垣山城はその役目を終え、1590年の小田原攻め終了後に放棄されました。そのため、石垣や一部の遺構は残されていますが、建物は現存していません。現在、石垣山城跡は国の史跡に指定され、観光地として整備されています。特に石垣や曲輪(くるわ)の遺構がよく残り、当時の築城技術の高さを伝えています。また、「一夜城」の伝説とともに歴史好きや観光客に親しまれています。
石垣山城は、戦国時代の終わりを象徴する城であり、豊臣秀吉の戦術的、政治的な巧みさを物語る重要な史跡です。雄大な景色と歴史を感じられるスポットとして、多くの人々が訪れています。
■遺構
石垣、曲輪、堀切、井戸
■指定文化財
国の史跡
■ご城印
■場所
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■城巡り記録
2024年10月20日
山中城を見た帰りに訪れました。
小田原北条攻めの際に作ってすぐに廃城としたお城なのでそれほどすごいものではないだろう。
張りぼて感たっぷりのお城だったんだろうなぁと思いながら行ったのですが、全く違っていました。
石垣がすごいです。
これは北条氏も降伏を申し出ると納得しました。
石垣山一夜城として一晩で出来たように見せたというのは知っていたのですが、ここまで多数の石垣を使って、ここまでしっかりとしたお城だとは思いませんでした。
それが、小田原城からすぐ近くに、しかも上から見下ろせる位置にあるのですから堪ったものではないです。
石垣の間の階段を上っていくとさらに石垣。
関東大震災で崩れてしまったといわれていますが、それでもこの石垣の量は驚くほどです。
ここまで石を運んでいたのだから北条氏も気が付かなかったということはあり得ないと思いますが、知れば知るほどその経済力、軍事力が分かり、勝てないと思えてしまうでしょう。
本丸には天守があったそうですが、どのような天守だったのでしょうか。
茶会などを行っていたということから、絵が残っていてもよさそうなものですが、北条攻めが終わるとすぐに廃城としたことから、無いのかもしれません。
続日本100名城にも選出されていて、スタンプは公衆トイレの前に置かれていました。
さらにご城印も一夜城ヨロイヅカファームに売られています。
山中城もですが、この石垣山城も訪れるべきお城だと感じました。
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