「高崎城」56城目@日本の城 #群馬県高崎市

■城名
高崎城(たかさきじょう)

■別名
和田城

■所在地
群馬県高崎市高松町

■見ごたえ
★★

■築城年
慶長2年(1597)

■廃城年
明治4年(1871)

■築城者
井伊直政

■主な改修者
安藤重信

■主な城主
井伊氏、諏訪氏、松平氏、安藤氏

■天守
破却

■天守構造
独立式層塔型御三階櫓[3重3階/1597年築?/破却]

■城郭構造
梯郭式+輪郭式

■城分類
平城

■縄張
旧名・和田城(わだじょう)。江戸時代には高崎藩の藩庁となりました。
高崎城は烏川に沿って築城された輪郭梯郭複合式の平城で、本丸には御三階櫓(天守)と乾(いぬい/北西)、艮(うしとら/北東)、巽(たつみ/南東)、坤(ひつじさる/南西)の4基の隅櫓がありました。
現存するのは乾櫓(県重文指定)のみです。
本丸を囲むように、西の丸、梅の木郭、榎郭、西曲輪、瓦小屋があり、二の丸、三の丸が梯郭式で構えられていました。城の周りは土塁で囲まれ、石塁はほとんど造られませんでした。
かつて城内には本丸門など16の門があり、通用門として使われていた東門(市の重要文化財)だけが移築復元されて現存しています。

■歴史
高崎城の地には古くは和田城と呼ばれる城がありました。
和田城の創建は古く、平安時代末期に遡り、この地の豪族和田義信が築城したと言われています。
永禄4年(1561年)当時の城主和田業繁は帰属していた上杉謙信に反旗を翻し、武田信玄につきます。
和田城は上杉勢の度々の侵攻によく耐えました。
その子、和田信業は、北条氏に属します。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠城し、和田城の留守を預かる信繁の子・兼業は、前田利家・上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、4月19日(新暦5月22日)に落城し、廃城となりました。

小田原征伐の後、関東には徳川家康が入部します。
家康の関東入部とともに箕輪城主となっていた井伊直政は、慶長2年(1597年)家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築きます。
この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされた為です。
慶長3年(1598年)直政は箕輪城から築城中の高崎城に移ります。
直政は入城に際し、当地を「高崎」(箕輪城下に直政が創建した恵徳寺の開山龍山詠潭和尚の「松は枯れることがあるが、高さには限りがない」との進言により)と名付けたとされています。
箕輪より町家や社寺を移して城下町を築きました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封となり、その後は、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏、安藤氏、松平(長沢・大河内)氏、間部氏、松平(長沢・大河内)氏と譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、明治維新を迎えました。

■遺構
乾櫓、移築門(東門)、土塁、横堀(水堀)

■指定文化財
県重要文化財(乾櫓)

■ご城印

■場所

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■城巡り記録

2023年6月7日

高崎城はもともとは和田城と呼ばれていました。

鎌倉殿と13人で有名になった和田義盛と関係があるようです。

なんか親近感が湧きますね。

その後、井伊直政によって高崎城として箕輪城から城下町も移されてきました。

かつて、16の門があったそうですが、現存しているのはこの東門のみのようです。

でも、現存しているだけすごいことですね。

そして、かつて4つあった隅櫓。

こちらも現存するのは乾櫓のみとなっています。

そして、ちゃんと残っているのは石垣ですね。

すばらしい。

石垣は世界的にも各所で作られていますが、日本も非常に高い技術を持っていたといえそうです。

最後のご城印を買いに、近くの本屋さんへ。

高崎城も前橋城ほどではありませんが、たくさんの種類のご城印が売られていました。

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