
■城名
鮫ヶ尾城(さめがおじょう)
■別名
宮内古城
■所在地
新潟県妙高市雪森字城山
■見ごたえ
★★★★
■築城年
戦国時代
■築城者
不明
■主な城主
堀江氏
■城分類
山城
■遺構
曲輪、堀切、竪堀、井戸
■指定文化財
国史跡
■歴史(GEMINIより)
鮫ヶ尾城(さめがおじょう)は、現在の新潟県妙高市に位置する戦国時代の山城跡です。上杉氏の重要拠点としての役割や、謙信死後の後継者争い「御館の乱(みたてのらん)」の決着の地として歴史にその名を強く刻んでいます。
2008年に国の史跡に指定され、2017年には「続日本100名城」(133番)にも選出された鮫ヶ尾城の歴史について、誕生から落城、そして現代に至るまでの経緯を詳しく解説します。
1. 鮫ヶ尾城の築城と地政学的役割
鮫ヶ尾城の正確な築城年は定かではありませんが、永正から天正年間にかけて、越後の戦国大名である上杉氏(長尾氏)によって整備されたと考えられています。
当時は北国街道の防御を兼ねた交通・軍事の要衝の再編が進められていた時期であり、鮫ヶ尾城は上杉氏の本拠地である春日山城(現・上越市)の直近を守る「最前線要塞」としての役割を担っていました。
越後と信濃・関東を結ぶ街道を見下ろす東坂山の山頂(標高約180m)に築かれ、複雑に配置された曲輪(くるわ)や土塁、空堀、虎口などを備えた非常に実戦的な連郭式山城でした。春日山城へ迫る外敵を阻止し、街道の動向を監視する上で極めて重要な城砦だったのです。
2. 御館の乱と城主・堀江宗親の動向
鮫ヶ尾城が日本史の表舞台に大きく登場するのが、天正6年(1578年)に起きた「御館の乱」です。
名将・上杉謙信が後継者を指名せずに急死したことで、謙信の養子である上杉景勝(長尾政景の仔)と、同じく養子であった上杉景虎(北条氏康の仔/氏の縁者)との間で、過酷な家督相続争いが勃発しました。
この時、鮫ヶ尾城主であった堀江宗親(ほりえ むねちか)は景虎側に加担していました。戦況が景勝優勢に傾き、天正7年(1579年)3月に景虎の本拠地である御館が落城すると、景虎は小田原の北条氏のもとへ逃れるべく、関東への唯一の逃げ道に位置していた鮫ヶ尾城へ逃げ込みます。城主の宗親は景虎を城内に手厚く受け入れ、一時的に景虎方の再起を図る拠点となりました。
3. 裏切りと鮫ヶ尾城の落城
しかし、景勝方の武将である安田顕元(やすだ あきもと)による密かな寝返り工作(切り崩し)が展開されていました。
城主の堀江宗親は安田顕元の誘いに応じ、景虎を裏切ることを決断します。宗親は突如として鮫ヶ尾城の二の丸に火を放つと、パニックに陥る城内から自ら逃走・退去してしまいました。
城主を失い、さらに内部から炎上した鮫ヶ尾城は混乱に陥り、間髪を入れず景勝軍の大軍による総攻撃を受けました。逃げ道を完全に塞がれた上杉景虎は、妻子とともに城内で自刃(自殺)して果てました。天正7年(1579年)3月24日のことです。
こうして謙信亡き後の越後を二分した「御館の乱」は、鮫ヶ尾城の落城と景虎の死をもって実質的な終結を迎え、上杉景勝による越後統一への道が確定することとなりました。
4. 廃城と生々しい出土品が伝える記憶
景虎の自刃後、鮫ヶ尾城は歴史の表舞台から姿を消し、やがて廃城となりました。しかし、この時に激しい炎に包まれた歴史の痕跡は、現代の発掘調査によって鮮明に蘇ることになります。
主郭や米蔵跡からは、当時の激しい火災によって黒く焦げた「焼き米」が大量に出土しました。さらに2008年度(平成20年度)の発掘調査では、熱を帯びた陶磁器とともに、雑穀の混ざっていない純粋な「おにぎり」の化石(炭化米)が出土し、大きな話題を呼びました。
これは、落城寸前の極限状態において、景虎や兵士たちが最後の糧食として準備していたものと考えられており、戦国時代の生々しい戦いの記憶を今に伝えています。
5. 現代における鮫ヶ尾城跡
現在、鮫ヶ尾城跡(斐太歴史の里)は国の史跡として整備されており、保存状態の良好な土塁や空堀、曲輪のグラフィックを散策しながら体感できます。
麓の管理センターや近くの温泉施設「景虎の湯」などでは、発掘された焼き米やおにぎり、出土した武具・陶磁器などの実物が展示されています。越後の歴史を揺るがした悲劇の舞台として、今も多くの歴史ファンや城郭巡りの人々を惹きつけ続けています。”
■ご城印

■場所
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■城巡り記録
2026年10月9日

10月9日、爽やかな秋晴れに恵まれた最高のアタック日和!今回は、上杉謙信亡き後の後継者争い「御館の乱(おたてのらん)」の激闘の地であり、悲劇の武将・上杉景虎の終焉の舞台となった鮫ヶ尾城(さめがおじょう)を訪ねてきました。
斐太歴史の里 総合案内所からのスタート
まずは登城口にある「斐太(ひだ)歴史の里 総合案内所」へお邪魔しました。

目的の一つだった「続日本100名城スタンプ」を無事にゲット!スタッフの皆さんが非常に親切で、コースの見どころや所要時間をていねいに教えてくださいました。旅の思い出にと、地元名物の「かんずり」も購入。


ここでひとつ重要なアドバイスを受けました。「山城は往復で1時間強ほど。日中なら大丈夫だと思いますが、最近も熊の出没情報があります」とのこと。少しヒヤッとしましたが、備えあれば憂いなしということで、案内所で販売していた熊鈴(300円)を即購入して身につけました。
さらに「山道は結構険しいから」とトレッキング用のストックを親切に貸してくださり、手荷物まで快く預かっていただけることに。至れり尽くせりの温かい対応に感謝しつつ、身軽な装備でいざ山頂を目指します!
熊の恐怖(?)で速足登山!本丸からの絶景
14:10に案内所を出発。
やはり「熊が出没するかも」と思うと自然と足が早まり、かなりのハイペースで坂道を登っていきます。事前情報の通り、山城らしい本格的な険しさを感じる山道です。しかし、道自体はある程度しっかりと整備されており、足元をとられることなくぐんぐんと標高を上げることができました。


汗をかきながら速足で登り進めること約15分。14:30前にはあっという間に「本丸跡(東坂山山頂・標高約185m)」へ到着しました!頑張れば20分足らずで登れてしまう距離感です。
本丸跡に立つ東屋の向こうには澄み渡る秋空が広がり、高台からの眺望は本当に素晴らしいの一言!かつて上杉景虎もこの景色を眺めたのかと想像すると、歴史のロマンと切なさが胸に迫ります。心地よい風が吹き抜け、登りの疲れが一気に吹き飛びました。

変化に富んだ下山コースと眼前に現れる現代のトンネル
本丸での絶景を堪能した後は、案内所のスタッフさんに教えていただいた「下り用の別コース」を通って下山することにしました。
こちらのコースは登りルートよりも傾斜が急ですが、階段などがしっかりと整備されているため、確かに下りにはぴったりでとても歩きやすい構造になっていました。
どんどん下っていくと、突如として目の前の風景が一変!山を大胆にぶち抜くように建設された巨大な高速道路(シェルター構造のトンネル)が目の前に出現しました。戦国時代の山城遺構の真下に、現代の巨大インフラが重なる独特の光景はなんとも不思議でインパクト抜群です。

短時間でも大満足!歴史のドラマを感じる名城
急ぎ足で下ってきた結果、14:40には無事に下山完了。 登りは約20分、下りは約10分と、頑張れば往復わずか30分ほどで戻ってくることができました!
短時間でのアタックにはなりましたが、親切なスタッフさんとの温かい交流、しっかりと残る山城の遺構、本丸からの美しい景色、そして現代構造物とのギャップなど、非常に見どころが詰まった「良いお城」でした。
歴史好きな方はもちろん、ちょっとしたハイキング気分で素晴らしい絶景を楽しみたい方にもおすすめのスポットです!
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