■城名
丸屋城(まるやじょう)
■別名
丸谷城、多賀谷城
■所在地
広島県呉市蒲刈町下島
■見ごたえ
★★
■築城年
南北朝時代?
■築城者
多賀谷景茂
■主な城主
多賀谷氏
■城分類
海城
■遺構
曲輪、石垣、堀切、竪堀、虎口、櫓台
■歴史(ChatGPTより)
丸屋城(まるやじょう)は、広島県呉市下蒲刈町、下蒲刈島の海岸部に築かれた中世の城跡で、瀬戸内海の海上交通を掌握するために設けられた海城(うみじろ)として知られている。城跡は島の南側、天神鼻と呼ばれる岬一帯に位置し、現在は公園として整備されつつも、往時の地形や遺構を今に伝えている。
丸屋城の築城時期は明確ではないが、南北朝時代から戦国時代初期(14世紀頃)と考えられている。築いたのは蒲刈多賀谷氏とされる。多賀谷氏はもともと関東に出自を持つ一族で、動乱の時代に安芸国へ移り、下蒲刈島や倉橋島を拠点として勢力を広げた海の武士団であった。彼らは島嶼部を基盤に、瀬戸内海の航路を掌握し、水軍活動を通じて地域支配を行っていたとみられる。
丸屋城は、山城的要素と海城的性格を併せ持つ城郭である。岬の尾根筋に主郭を置き、その周囲に小規模な郭を配し、堀切や土塁によって防御を固めていた。背後は山、正面は海という地形を最大限に利用し、敵の侵入を制限する構造になっていたと考えられる。城域自体は大規模ではないが、瀬戸内海を行き交う船を監視するには極めて有効な立地であり、軍事拠点であると同時に、海上支配の象徴的存在であった。
戦国時代に入ると、瀬戸内一帯は大内氏・尼子氏・毛利氏といった有力大名の勢力争いの舞台となった。蒲刈多賀谷氏もこうした大勢力の間で翻弄され、一時は尼子氏の影響下に置かれたとも伝えられる。その後、毛利氏が安芸国を制圧すると、多賀谷氏は毛利氏に従い、水軍衆として活動したとされる。しかし、毛利氏による支配体制が整う中で、島嶼部の小城は次第にその役割を終え、丸屋城も16世紀後半には廃城になったと考えられている。
現在の丸屋城跡には、天守や石垣といった目立つ遺構は残っていないが、尾根を断ち切る堀切跡や郭とみられる平坦地など、中世城郭特有の地形が随所に確認できる。城跡からは瀬戸内海を一望でき、眼下に広がる海を見下ろすと、この地が海上交通の要衝であったことが実感できる。周辺には安芸灘大橋や島々の風景が広がり、歴史と自然を同時に味わえる場所となっている。
丸屋城は、巨大城郭ではないものの、瀬戸内の水軍文化と島嶼防衛の実態を伝える貴重な城跡である。陸の城とは異なる視点から戦国時代を理解するうえで重要な存在であり、呉市周辺の海城を考える際に欠かすことのできない史跡といえる。
■場所
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■城巡り記録
2025年12月13日

呉市でレンタルバイクを借りていきました。

島の少し小高い丘に建っていたお城のようですね。

細い道だったのでバイクが正解ですね。

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