「沢山城(たくさんじょう)」132城目@日本の城 #神奈川県

■城名
沢山城(たくさんじょう)

■別名
澤山城、三輪城

■所在地
東京都町田市三輪町

■見ごたえ

■築城者
不明

■城分類
山城

■遺構
曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸

■歴史(ChatGPTより)
沢山城は東京都町田市三輪町に位置する中世山城で、別名を三輪城とも呼ぶ。現在の小田急線・鶴川駅の北西に広がる丘陵地に築かれ、麻生丘陵の支尾根先端を利用した典型的な小規模の平山城である。城の築城者や築城年代については史料が乏しく、戦国期の記録にも明確な言及がないため、詳細は定かではない。しかし、その地勢や周辺地域の政治状況から、城は後北条氏が多摩丘陵から相模国北端にかけて敷いた支城網の一角を担っていたと考えられている。

戦国時代、この地域は相模国の北端にあり、北条氏の本拠・小田原と武蔵国に進出するための前線の狭間に位置していた。北条氏は領国支配を強化するため、小規模ながら戦略的に重要な地点に多数の支城・出城を設けており、沢山城もそうした城の一つとみられる。町田市内には小山田氏の居館跡をはじめ、根小屋式城館や砦跡が点在しているが、北条氏が関東の広域支配を進める過程で、これらの地域拠点が再編・強化された可能性は高い。沢山城も、北条支配の末期である16世紀後半に、相模・武蔵を結ぶ街道監視や地域の領主支配を補う目的で利用されたと推察される。

城跡には現在も多くの遺構が良好に残る。特に、主郭背後の大規模な空堀は敵の侵入を遮断するための大切な防御線であり、尾根続きの弱点を補う意図がうかがえる。主郭外側には防御を厚くするための土塁がめぐり、その下段には攻撃に備えるための腰曲輪が配置されるなど、小規模ながら実践的な構造を備えている。また、城内には井戸跡も確認され、籠城を想定した設備が整備されていたことがわかる。周囲の都市化が進んだ現在にあって、これらの中世城郭遺構が比較的明瞭に残る点は特筆すべきである。

しかし、沢山城が具体的な戦闘に関わった記録は残っていない。北条氏が関東全域を支配していた時期、この付近は大規模な戦闘が生じにくい位置にあり、城は戦闘拠点というより、周辺支配を行うための監視所・居館・地域行政施設的な役割を果たしていたとみられる。1590年の小田原合戦で北条氏が滅亡すると、多くの支城と同じく沢山城も廃城となり、江戸時代には農地と山林として利用されるようになった。

現代では周辺が開発され住宅地となったが、城山の地形はよく保たれ、中世の山城の姿を伝えている。規模は大きくないながら、北条氏の支城網の特徴を示す遺構がまとまって残る貴重な城郭であり、地域の歴史を考える上で重要な存在となっている。

■場所

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■城巡り記録

2025年11月24日

広々とした公園の上の方が城跡らしい。

公園では子供たちが楽しそうに遊んでいます。

上ってみました。

城跡らしい場所には柵が張り巡らされていました。

どうやら私有地で入れないみたいです。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 旅行ブログ 日本遺産へ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

人気ブログランキング

お城巡りランキング

お城・史跡ランキング

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする